いまさらですが、『勇気を「与える」』って表現に違和感を感じます。

まちがっていたら、ごめん。
最初から謝っておくよ。

ここしばらくずーっと意識の底で蠢いていた違和感。

ね。

『日本に元気を「与えたい」』って、なにかおかしくはないか??

ぐるぐると記憶をかき回していたら、小学校高学年か中学生の時に読んだ国語教科書を思い出した。その内容は確か……。

「ペットに餌をあげる」は日本語としてまちがいです。
正しい表現は「ペットに餌を与える」です。

ああ。
うんうん。
そういう内容だった。

詳しい使い分けは、下の国語辞典からの抜粋を読んで欲しいけれど、少なくとも「与える」は「目上の者が目下の者に(恩恵的な意味で)授ける」というニュアンスに取れるよなあ。もちろん、最後の「影響を及ぼす」という意味で使っているんだと、無理目な強弁も出来るけれど。でも、言葉にセンシティブな人ならば、「日本に元気を与える」って表現を使うことは、微妙に日本をディスっているように感じられるだろう。

しかも。
「与えたい」って言葉は「ペットに餌を与える」、「植木に水を与える」という使い方に用いるものであるのに、「ペットに餌をあげる」、「植木に水をあげる」と日常的に誤用されている始末。ならば、なぜ「元気を与える」という表現をメディアは選び取ったのかな?僕は少し考え込んでしまう。

たぶん、元々は「元気をあげたい」「元気を差し上げたい」「力づけたい」という動機から生まれた「元気を与えたい」なんだろうけれど。この使い分けをメディアが出来ていないのだとしたら言葉を扱う業界として無知だし、わざとやっているのならばかなり悪質だと思う。師弟関係、先輩後輩、親子関係なんかでは「勇気を与える」で良いでしょう。ただ、メディアが日本人代表を気取って「勇気を与える」を連発するのは誤用だし、スポーツ選手らも後輩を元気づけるとき以外に「勇気を与える」を使うのは不適切だと思います。

ああ、そうか。
ここまで書いていて気づいた。

スポーツ選手らが、たとえば「先輩から勇気を与えられました」とか使うから、逆に「勇気を与えたい」が使われるようになったのかもなあ。受け身から立場逆転みたいな。言葉の発生順序が、従来とは逆なのかもしれないなあ。

僕は、日本に元気をあげたい、と思っているよ。
そして、お礼を言うときは「ありがとう。元気をいただきました」かな。

==========
あ・げる【上げる/揚げる/挙げる】

[動ガ下一][文]あ・ぐ[ガ下二]
1 そのもの全体または部分の位置を低い所から高い方へ動かす、また、移す。
2 所有者や高位の者の手元に収める。
3 上の段階や等級へ進ませる。「息子を大学に―・げる」
4 程度を高める。
5 (注:なぜか空白)
6 物事を終わりにする。
7 人の目についたり、広く知られるようにする。
8 (揚げる)揚げ物を作る。「てんぷらを―・げる」
9 神仏や敬うべき人などに、ある行為がなされる。
 1)神仏に供える。「供物を―・げる」⇔下げる。
 2)「与える」「やる」を、その相手を敬っていう語。「洋服を―・げる」
10 地方から都に行く。上京する。
11 戸や格子を上部に開きあける。
12 勢いよく馬をはねあがらせる。
13 動詞の連用形のあとに付いて複合語をつくる。
14 (補助動詞)動詞の連用形に接続助詞「て」が付いた形に付いて、主体が動詞の表す行為を他者に対し恩恵として行う意を表す。「てやる」の丁寧な言い方。「仕事を手伝って―・げる」「君のかわりに行って―・げよう」
[補説]9②は本来、敬うべき対象に物をさし上げるの意で、「犬にえさをあげる」のような言い方はしなかった。現在では「与える・やる」の丁寧語として使う人が増えている。==========
「デジタル大辞泉」一部抜粋
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/3185/m0u/%E3%81%82%E3%81%92%E3%82%8B/


==========
あた・える〔あたへる〕【与える】

[動ア下一][文]あた・ふ[ハ下二]
1 自分の所有物を他の人に渡して、その人の物とする。現在ではやや改まった言い方で、恩恵的な意味で目下の者に授ける場合に多く用いる。「子供におやつを―・える」「賞を―・える」
2 相手のためになるものを提供する。「援助を―・える」「注意を―・える」
3 ある人の判断で人に何かをさせる。
 1)相手に何かができるようにしてやる。配慮して利用することを認める。「発言の自由を―・える」「口実を―・える」
 2)割り当てる。課する。「宿題を―・える」「役割を―・える」
4 影響を及ぼす。
 1)相手に、ある気持ち・感じなどをもたせる。「感銘を―・える」「いい印象を―・える」「苦痛を―・える」
 2)こうむらせる。「損害を―・える」
[補説]室町時代以降はヤ行にも活用した。→与ゆ
==========
「デジタル大辞泉」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/4484/m0u/%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B/

ボッテガ・ヴェネタ と ナナオをお買い上げ。

偶々なのでしょうが、いろいろなモノが壊れてしまう時期なようです。

今まで使っていたPRADAの財布は、数年前にシドニーに一人旅したときに買ったもの。見た目はかっこいいんだけれど、メタルのエンブレムがポケットを破ってしまったりして、いろいろと大変だった。しかも!!小銭ポケット部分に穴があいていることが判明。「ちょっと!そんな財布じゃお金が貯まらないよ」と彼氏も苦笑する。欧州からの帰り道ドバイで、ルイ・ヴィトンでも買おうかと思ったんだけれど、上手く見つからなくて。結局、帰国してからこれを買いました。

Bottega Veneta ボッテガ・ヴェネタ 二つ折りウォレット
かなりお値打ち価格で手に入れました。
これだったらポケットを傷つけることもないでしょう。

それから、デスクトップPC用の液晶モニターが故障。スイッチが切れなくなったり、あるいは利用中に勝手に電気が切れて立ち上がらなくなったりと、動きが変になっていた。もう6〜7年使っているからねぇ。とりあえず手ごろな価格でナナオ製品が売られていたので、amazonに発注。明日納品予定。

FORIS FS2332-BK

仕方なくMacBook Airで旅行中の写真を加工中。
まだ青の洞窟編が終わったばかりだよ。
このあとにはポジターノ、アマルフィなんかが控えている。

いま、NHKの「未解決事件 グリコ・森永事件」編を見ながらキーボードを打っています。さすがによく調査されていて、民放の特番とは内容の濃さがちがうなあ。かい人21面相が終結宣言を出した日は、奇しくも日航123便墜落事故が起こっていたんですね。しみじみしてしまいました。

「みんな、悪しき流れに気づけ」……朝鮮ファシズムとの戦いが幕開けか!?

今夜は酔っ払っているからストレートに書くぞ。

俳優の高岡蒼甫が「みんな、悪しき流れに気づけ」と韓流ごり押しとフジテレビを批判して、所属事務所のスターダストプロモーションを解雇されたことが騒動になっているよね。

みんな、歴史に学ぼう。
歴史と言っても、朝鮮人の半万年ウリナラファンタジーじゃなくて、僕たちのばぁちゃんたちが体験した、第二次世界大戦くらいのことで十分だ。

日本人は空気に支配され、誤りを正せずに大きな間違いを犯したことが何度かある。
僕も再三、売国左翼と韓国人問題をこのブログで取り上げてきたけれど、しょぼいブログだからなんの影響力もない。だけど、高岡蒼甫は「王様は裸だよ!」と叫んだんだよ。フジテレビに限らず、いつから日本のメディアは朝鮮半島の走狗になったのかと。

メディアは韓流がブームだという。
だが、本当に韓流はブームなのか、という検証をメディアが行ったことは聞いたことがない。地上波TVでは、わずかに「韓流なんか興味がない」という声が聞こえるのみ。


2011年1月28日放送 「5時に夢中」 生投票 K-POPアイドルに興味はありますか?

検証、反証を許さずに、ひたすら一つの価値観を垂れ流す、押しつけるというのは、一種のファシズム、全体主義なんだよ。左翼の日教組教師にファシズム=軍国主義と洗脳されてきた人はお気の毒様。朝鮮半島産のモノがほんとうに良品だったら、僕ら国民が個人個人で吟味し、評価する。それを許さずに、メディアが一方的な価値観で韓流ブームを煽るのは、太平洋戦争開戦直前に朝日新聞が戦争を煽った偏向報道と何ら変わらない。僕たちはまた騙されるのか?政権交代で騙されたのに。二度騙されるヤツはバカだ。
成田空港や、茨城空港での韓流スターお出迎えが、サクラで、しかも人数超水増しだという捏造もばれている。これを無批判で垂れ流すメディアは、もはや信用する情報を提供する機関ではなく、どっかからのカネが入っている洗脳箱だと、その危険性を認識しなくちゃならない。

僕たちはすでに、朝鮮ファシズムという戦いを仕掛けられ、半分騙され、負け続けている。
民主党みたいな反日極左政権を作り出し、日本がもはや動きがとれなくなっているのもその流れの一環。
韓流と反日左翼は水面下で手を繋ぐ、僕らの敵だよ。

「みんな悪しき流れに気づけ」とはそういうこと。
とにかくTVのスイッチを切って、自分で考える力をつけることが必要だ。
メディアの叫ぶことなんて一切信じるな。

韓国人の書く記事は、嫉妬、羨望、はち切れんばかりの自尊心、アイゴーの4種類

サーチナが「日本が中国の高速鉄道事故を批判するのはプライドのため」と韓国メディアが報じたと言っているのを見た。たぶん、原典は中央日報の『福島第1原発事故でプライドが傷ついた日本にとって「新幹線の安全神話」は最後の砦だ』を針小棒大にした、かなり問題のある記事のような気もする。ひょっとしたら、原典は別のものなのかもしれないけれど。

日本人が、中国高速鉄道とKTXを「パチもんの癖に、なにを大きな口を叩いているんだ」と思うのは、日本、フランス、ドイツのように、自ら技術を研鑽して製造したものではないくせに、あたかも独自技術のように世界に吹聴して回るからだ。
中国鉄道部の王勇平報道官が、日本メディアが「海賊版新幹線」と揶揄していることに対し、「ぬけぬけと大きなことを言っている」と一蹴したと報道もされた。これにも日本人は怒っている。ろくな研究もせずに、技術供与を受けた車両を高速改造して爆走させてみただけじゃないかと。ほどなく事故が起こるだろうに、それこそデカイ口を叩くな!と思っていたよ。
KTXも、フランスのアルストム社から提示された部品交換周期すら守れずに、故障が続発しているのはよく知られていること。なんというか、最低限必要な安全性に対する投資もしない運用主体が寝言を言うな、という感じかな。

中韓は、なんというか、科学技術の発展史に貢献する努力もせずに、世界一だとか、日本を超えたとか宣伝だけする、いかがわしい存在として捉えられているんだ。ほんとうに隣国は胡散臭いヤツラだ。

日本人がプライド(韓国人の言う自尊心というヤツですけど)のために、中国高速鉄道の事故報道を報道しているわけじゃない。起こってしまった事故は仕方ないとして、その原因究明にどれだけ真摯な態度で臨むか、事故の教訓が世界の鉄道運用の改善に役立つかであって、調査もせずに事故車両を重機でぶっ壊して土に埋めたことに仰天しているだけだ。「支那はまともな国じゃない」というのが一般日本人が受けた印象だ。そして、この騒動が第二の天安門事件につながりかねないから、行く末を注視している。

しっかしサーチナも意地が悪い。
韓国人の書く記事は、嫉妬、羨望、はち切れんばかりの自尊心、アイゴーの4つの感情に支配されて書かれている。だから、日本が中国高速鉄道事故を報道するのはプライド維持のためという、いかにも韓国人の書きそうなタイトルにするとはね。

今回の事故で犠牲になった方々のご冥福をお祈り申し上げます。

========================================
日本の新幹線、人命のために時間をかけて築いてきた「安全管理」
2011年07月27日11時00分

  5月末、国際使節が集まった中、祝辞を始めた松本剛明日本外相は、大地震に対する国際社会の支援に感謝の意を表し、突然、新幹線の話を取り出した。「地震が発生した当時、東北地方を走っていた新幹線は18便、特に福島県-岩手県では5便が時速270キロ以上で走っていた」とし「しかしどれ一つ問題なく停止し、けが人もいなかった」と自慢した。福島第1原発事故でプライドが傷ついた日本にとって「新幹線の安全神話」は最後の砦だ。

  それほど日本政府と関係機関が新幹線に注ぐ安全管理は大変なものだ。新幹線は1964年に運行を始めた。最高速度は210キロ。当時の世界最高記録だった。

  新幹線の後に続いたフランスのTGVが83年に270キロ、89年に300キロと高速化に乗り出したが、新幹線は決して急がなかった。車両の先端化で早くから300キロ以上を出すことはできたが、「交通の命は‘石橋を叩いて渡る’にある」(中村英夫東京都市大学学長)という原則を曲げなかった。

  最初の運行から22年が過ぎて220キロに上げ、46年が過ぎた昨年まで275キロを超えなかった。今年3月5日に開通した東北新幹線で初めて300キロに達した。

  こうした緻密で執拗な努力のため、新幹線ではまだ追突事故が1件もない。もちろん死亡者もいない。「車両・信号・運行管理」の3種セットで事故を源泉遮断する。ブレーキや信号体系に問題が発生すれば、常に安全な方向へとシステムが作動し、車両を止めるよう2重、3重の安全装置になっている。

  半世紀かけて新幹線網を構築した日本に対し、中国はその4倍の距離をわずか数年間で終わらせた。新幹線など日本の鉄道計画専門家の中村英夫学長(76)は26日、「運行・管理に関するすべての人材を定期的に研修棟で合宿させながら、各種事故の悲惨さを知らせ、緊張感を高める教育をするのが、安全の確保に役立つ」と述べた。

原典:中央日報
http://japanese.joins.com/article/216/142216.html?servcode=A00&sectcode=A00

Mac OSを Snow leopard から Lion にバージョンアップしてみました。

夏休みの欧州旅行から戻ってきて、2日間の調整休暇を過ごしています。
革のコートを着込んだ人たちが歩いているドイツは、日本のまるで11月〜12月の陽気。
現地人たちにいわせると7月下旬でここまで寒いのは異常気象だとか。
その寒冷なドイツから27〜30℃の日本に帰国したら、そりゃ身体がついて行きませんよね。
頭が痛い、食欲不振など、今日一日でなんとかしなければ。

時間があったので、Mac OSを Snow Leopardから Lionにバージョンアップしてみました。サクッとバージョンは上がったのですが、なんかATOK2008の動きが変(あとで調べたら、設定を変えれば動いた可能性はありました)だったので、こちらもバージョンアップ。Windowsとあわせて3年ぶりのATOK更新となりました。変換精度は良くなったのかな!?

Lionの感想ですが、Spotlightを最初から機能停止にしていたので、あまり重いという感じはありませんでしたね。Lionとあわせてリリースされた最新のMacBook Airならば、さらにサックサクに動くのでしょうが、2010年MacBook Airでも快適に利用できてます。あとはマルチタッチジェスチャーの習得さえできれば完璧……あ、なんか筐体は熱くなるような気がするぞ。

イタリア・ドイツ紀行の写真は543枚……どうしよう。

自分も旅慣れたなあと思うのは、帰宅して30分もしないうちに片付けを始め、海外旅行用の大型ハードケースを雑巾で拭いて物置にしまうまでに、90分もかからないようになったことだな。ほんと、あっという間に旅行の余韻もぬぐい去られてしまう。ちょっと情緒に欠けてしまうかな!?

一眼レフのSDカードをPCにコピーしたら、1836個の画像ファイルが記録されていて、ブログ用にその中からChoiceしたら543個の写真が残ってしまう有様。さすがに去年のハワイだってここまで写真は残らなかった。さあ……どうしましょうね。

No Darling, No Life.

10日間に渡る欧州旅行から帰国しました。

ミュンヘン国際空港で、それぞれ行き先の異なる飛行機に搭乗するため、ここで彼氏と別れた。
まるで母船から切り離された宇宙船のような気分と僕が呟くと、なにそれ!?と彼氏が笑う。「だって後方支援なしで、これから単独で何とかしなくちゃならないからね」と答えた僕は、たぶん神妙な顔つきだったと思う。

それまで海外を一人で旅するときは、初日はそろりそろり。最終日になって少し冒険が出来るようになる、というのがいつものパターンだった。彼氏と旅するようになって、僕らはすっかり役割分担が出来てしまい、とくに対外折衝は彼氏が受け持ってくれることに甘えてしまっている。だから、ヒアリング能力とかのスイッチが全然入らない状態で最終日を迎えた。

後方支援なしになって、程なくしてパスポートコントロールでトラブルに巻き込まれ、僕は半泣きでターミナルを走り回ることになったのだけど、それは別の機会に書きましょう。

ミュンヘンからドバイへ向かうエミレーツ航空の機内は、それはもうアラブ指数がmaxで、僕は少しクラクラしながらドバイにたどり着いた。そして3時間の待ち合わせで成田行きの便にトランジット。そこに搭乗していた日本人男性CAが、驚いたことに彼氏の後輩だった。ギャレーで少しお話ししたら、担当エリアは違うのにちょくちょく様子を見に来てくださって助かった。「もしよろしかったら」と思いがけずありがたいプレゼントを頂いたりして、この場にはいない彼氏のおかげで日本へ向かう長距離飛行も無事に終わった。もちろん着陸してジェッティを歩く間に、彼氏にさっそく電話で報告したさ。彼氏は笑ってきいてくれたけれど、まさにNo Darling,No Lifeだね。

帰宅して、PCにコピーした写真をうっとりする。期待していたショットがいまいちだったり、思いがけずいい写真もあったりして、本当に宝石箱を眺めているよう。

カプリ島の"青の洞窟"から、まず2枚。

エピローグ 2011年欧州旅行記-58

成田国際空港に到着すると、まとわりつくモンスーン気候帯独特のしっとりとした大気がとても懐かしいような気がした。成田アクセス特急に乗り、自宅に戻る。最近は荷物を素早く片付ける癖がついて、帰宅早々、旅行中の冒険談をするよりも前に洗濯物を出し、スーツケースを片付ける。帰宅してわずか1時間内に、欧州旅行の荷物はきれいに片付いてしまった。

これがお土産で買ったものたち。後ろに見える、桃の箱は別。


エミレーツ航空でお土産にいただいたお菓子の詰め合わせ。豪華仕様!子供向けのプレゼントにしては豪華すぎるので、ビジネスクラスか、ファーストクラスの人たちのおやつなんだろうか!?


ソレントで買ったリモンチェロ。おしゃれな小瓶がかわいらしい。
後ろに積み上がっているのはドバイで買ったばらまき用マカダミアナッツチョコレート。


アマルフィで買った壁掛け。お土産屋のおばちゃんが「これはガラスを流し込んだアート作品」と繰り返し強調していた。南イタリアならともかく、日本の住居ではちょっと居心地が悪そうだ。


ソレントで買った乾燥食材各種。パスタに絡めて食べる。


ドバイ国際空港で手に入れたラクダ。ここ何年か、海外で動物のぬいぐるみなどがあると買う癖がついた。香港のドラゴンから、ロンドンのパディントンベアーなどなど。


ローテンブルクで買ったくるみ割り人形。説明書には「くるみを割ると壊れます」と注意書きがある。(苦笑 やればできる子なのか!?……いやいや、あくまで飾りだ。


そしてクリスマスマーケットで買ってきたクリスマスピラミッド。ローソクを炎から立ち上る暖かい空気で羽根が回る仕組み。あまり宗教色の強くないものを選んだ。


終わってみるとあっという間に過ぎてしまった12日間の旅行だったけれど、彼氏との絆がより深まった気がする。と言うよりも、一人で心細く海外の街をさまよっていた頃をなかなか思い出せないほど、この3年あまりは幸せだったんだ。どうか、この幸せが長く続きますように……。

2011年欧州旅行記、終了。

ミュンヘンで鳥居の夢を見て 2011年欧州旅行記-57

ミュンヘン最終日、僕は明け方に奇妙な夢を見た。
社会人になって最初に勤めた会社の上司や社長らと、良く晴れたきれいな空の下、草原の中をオープンカーで走って行く夢だった。口はぱくぱくと動くのだけど、音は聞こえてこない。ふと自分の掌に赤い3つの不思議なパーツが載っかっていて、それを組み立てると小さな赤い鳥居になった……。そんな夢を見て目が覚めると、外はまだ午前6時前。窓の外には薄暗いミュンヘン中央駅の屋根が広がっていた。

彼氏も起き出してきて、交代でシャワーを浴びる。ミュンヘン中央駅に出かけ、フードコートで温かいパニーニとコーヒーを楽しんだ。今日は帰国日で、12時までにミュンヘン国際空港に到着すれば良い段取りだった。荷物をまとめ、駅前からルフトハンザ航空が運行しているリムジンバスに乗り、空港を目指す。前日の激しい雨が上がり、冷夏で空気は凛と冷たかったけれど、石造りの町並みを離れ、緑豊かな郊外の空港へと続く道は、どうしたってセンチメンタルな気分で眺めることになる。

近代的で美しいミュンヘン国際空港で、少し早いお昼ご飯。


食事の後、僕らは空港で別れた。それぞれの飛行機に乗るために。

普段だったら……楽しかった旅行の思い出を抱きつつ、ボーディングゲートに向かうはずだったのだけれど……トラブル発生。税金還付手続きをし、チェックインして、いよいよ出国審査の段階になって問題が発生したのだ。なぜかローマでEU入国のスタンプが押されてなく(僕も変だなあとは感じていたのだが)、「お前はいったいどこから来たのだ?」と検査官に止められた。Eチケットを見せたりしたけれど、「連邦警察の事務所に行って、なんか手続きしてこい」と放り出される。
連邦警察の事務所ってどこ?とインフォメーションで尋ねて、違うフロアーに行ったものの、それらしき入り口は見当たらない。困っていると警官の一団が、無機質な金属製のドアを開けて入っていこうとするので、その中の女性警察を呼び止めて事情を話す。彼女はパスポートとEチケットを持って奥の事務所に消え、戻ってくると「そこのベンチで座って待ってて」と言い置いて消えてしまった。ベンチで15分位座って待っていると、中から男性警察官に呼ばれた。僕の前にはパキスタン人の一家が手続きをしていて、僕もああいう目に遭うのかと思ったら、気が滅入る。日本のパスボートは信用力があるというのだろうか。パスポートのコピーを取られ、書類にサインをし、パスポートに「ローマからEUに入国したことを証明する by ドイツ連邦警察」みたいなスタンプが押されて返却されるだけで済んだ。

再び入国審査カウンターに行くと、今度は「どこからドイツに来たんだ」と訊かれる。エア・ベルリンでナポリからフランクフルトに入り、あとは電車で移動したと言ったが、あいにくエア・ベルリンの半券は預け荷物の中。しばらくにらみ合いが続いたが、なんとか出国することができた。この時点でもうくたくた。出発ゲートの前のベンチにへたり込んでこの写真を撮ったときは、これでやっと帰国できると安堵の思い出いっぱいだった。


ミュンヘンからドバイへ飛ぶエミレーツ航空は、アラブ濃度がものすごく高い。高級ブランド品をたくさん持った一家が何組も見かけた。ドイツ時間で15:45に離陸した飛行機は、地中海をかすめ、大好きな AirShow を眺めていると、メッカを少し過ぎた砂漠の上で夜を迎えた。ドバイには23:40に到着する。深夜のドバイ空港は、旅行客でごった返していた。往きは買い物客もほとんど目にしなかったのに、いったいどうなっているのだろう。手早くお土産を買い、小腹が空いたのでマクドナルドでチーズバーガーのセットを食べる。一人になるといろいろと不便。トイレ一つ行くのにも気を遣う。普段彼氏と旅行をしていて、どれだけ彼に依存していたのか、中東ドバイでつくづく実感させられた。

7月25日 2:50 ドバイ発の機上の人になって、僕はやっと安心した気分でいた。僕の座っていたエコノミーシートに、感じの良い男性CAが働いている。なんとなく直感が働いて、ミールサービスの合間のギャレーに訪ねていってみた。勘は大当たりで、彼氏の後輩で、彼氏が乗務している便にお客さんとして搭乗したこともある人だった。もちろん向こうはびっくりしていたけれど、あとで「お荷物にならなければ、よろしかったら」とお土産までいただいてしまった。今回の旅行は、最後まで彼氏にお世話になりっぱなしだった。

Augusutiner Gaststaetten で最後の晩ご飯 2011年欧州旅行記-56

ミュンヘンに戻ってきて、ツアーは解散。僕たちはマリエン広場へ向かい、"Augusutiner Gaststaetten"という彼氏おすすめの老舗に入ることにした。創業は1328年という歴史のあるレストラン。たくさんのお客さんでごった返している。僕らは恰幅の良い女性二人が座っているテーブルに相席させてもらうことになった。ドイツのビヤホールなどでは相席は珍しくないのだそうだ。

キーファー・サザーランドというよりは、ドラマ24のジャック・バウアーみたいなウエイターに給仕してもらう。白ワインで乾杯。彼氏はグーラーシュを選び、僕はソーセージの盛り合わせを食べる。付け合わせのジャガイモが相変わらず美味い。


店内はとにかく混雑しているので、会計をしてもらおうとしてもジャック・バウアーが捕まらない。遠くのテーブルで忙しそうに働いているのだ。相席の女性たちも会計してもらいたがっているのだが、なにせ彼が捕まらない。僕も酔っ払っていて、ちょっと変になっていたんだろう。両手を挙げて、ひまわりが揺れるみたいに手を振ったら、バウアーも気づいてくれるんじゃないかと思った。遠くでバウアーが動いたときに、両手を大きく振ってみた。小学生の子供がアピっているみたいに。そうしたら遠くからピシッと人差し指でこちらを指差し、次そっちに行くと。「ドイツ人だったら腰に手を当てて怒るところを……まったくアジア人ってのはおもしろいな」とバウアーはニコニコ。おばちゃんたちもニコニコ。無愛想なドイツ人があんな風に笑うのは珍しいと、あとで彼氏から聞いた。

店を出て、新市庁舎のからくり時計が動くのを待った。21時は Münchener Kindl (ミュンヘン小僧)がおやすみの挨拶に現れる。それを見届けて、僕らはホテルに戻った。

ノイシュヴァンシュタイン城(2) 2011年欧州旅行記-55

がんばってマリエン橋まで強行してしまったので、ツアーが始まるまで30分近くも時間が余ってしまった。売店で飲み物を買い、ベンチに腰掛けて城を見上げる。19世紀に建てられた城だから、当たり前のことだが城壁自体が新しい。しかも戦いを想定して作られたものですらないテーマパークのような城だから、どことなく作り物めいた雰囲気が漂う。


ヘリコプターが現れて、しばらく城の正面でホバリングする。ポスターや絵葉書に使われているノイシュヴァンシュタイン城の写真は、実は地上から撮影はできないそうで、ヘリコプターから撮ったものなのだそうだ。ヘリコプターを使った観光ツアーなんて、ずいぶん豪勢だなあと彼氏と笑いあう。いつか自分もやってみたい気がした。

ツアーが始まると、オーディオガイドが貸与され、それにしたがって進んで行く。城内は撮影禁止だけれど、窓の外を撮影するのはOK。僕らがマリエン橋を目指して前のめりになって歩いた山道や、ホーエンシュヴァンガウ城、そして崖に架けられたマリエン橋を撮影することができる。


ノイシュヴァンシュタイン城自体は未完成の城で、装飾なども完成していないと感じさせられる箇所は多々あった。一方で電気、電話、エレベータなどが使われていたりしてびっくりする。微妙に不思議な空間だった。

「ここまで連れてきてくれてありがとうね」と彼氏にお礼を言って、僕たちはノイシュヴァンシュタイン城を後にする。坂道を他の観光客に混じって歩く。予定していた観光をすべて終えた充実感を胸に抱きながら。

ランチを摂ったレストランに戻ってきた。お土産屋も冷やかしたけれど、さすがに鳩時計を勝手も架ける場所がないし……と見送り。バスに乗って他のお客たちを待った。


バスはノイシュヴァンシュタイン城を離れ、ミュンヘンへ向かう。ノイシュヴァンシュタイン城はドイツ・ロマンチック街道の終着点だというが、バスは少しだけロマンチック街道を走った。丘とかわいらしい家々が続くその道は、その名の通りロマンチックだった。

ノイシュヴァンシュタイン城(1) 2011年欧州旅行記-54

ノイシュヴァンシュタイン城は、世界的に有名な観光地。観光客でごった返している。バスを降りて、各国語別のツアーチケットを手渡される。この時間に指定の集合場所に集まってツアーに参加しないと、内部の見学はできないのだ。

そしてノイシュヴァンシュタイン城へ向かう前に食事。ノイシュヴァンシュタイン城観光は自由行動なので、自分たちで時間を組み立てなければならない。バス駐車場から城まではシャトルバス、馬車、あるいは徒歩で20~25分。城を眺めるためのビューポイント"マリエン橋"までは、さらに20分ほど歩く。そしてツアー集合時間には遅刻できない。そんなわけで慌ただしく昼食を摂る。

「燃料入れなきゃ」とワインを飲む彼氏。これから強行軍なので目が回ってしまうんじゃないかと心配になった。グラスワインはしっかり「線」が描かれたところまで注がれている。


そして白ソーセージ。お湯に浸かっているのを引っ張り上げ、そのまま切って食べようとすると、彼氏が「待て待て待て……」と。ボイルした白ソーセージは皮を剥がして中身だけ食べるのだと。そっか、知らなかった……。大ぶりのプレッツェルをかじってランチは終了。


レストランを出て、城を見上げる。それからシャトルバス乗り場へ行ってみた。30分間隔で走っているというシャトルバス乗り場には、長蛇の人の列ができている。僕らは徒歩を選んだ。周りにも坂道を歩いている人たちがたくさんいる。もともとが弾丸旅行体質の僕。「あの東洋人はなにを焦っているんだ??」という視線を感じながら二人でガシガシ歩き、城の正門には15分で到着。そこからマリエン橋まで10分弱の強行軍で走破。目が眩みそうな谷に架けられた橋の上から、ノイシュヴァンシュタイン城を堪能する。


この辺りは美しい湖水地方で、近くにはホーエンシュヴァンガウ城も見える。晴れた日はさぞかし風景がくっきりとして見えて美しいことだろう。

リンダーホーフ城 (Schloss Linderhof) 2011年欧州旅行記-53

リンダーホーフ城は、ルートヴィヒ2世が完成にこぎ着けた唯一の城だという。その庭園や城の様式はヴェルサイユ宮殿の影響を強く受けている。ヴェルサイユ宮殿ファンの彼氏には、かなりうれしい場所だったに違いない。

駐車場でバスを降り、アナさんから集合場所と集合時間について説明を受ける。言葉は英語。白鳥が遊んでいる池を眺めながら各人リンダーホーフ城の建物を目指す。
今回のツアーは各国語の人が混じっていたけれど、最大勢力は日本人だったらしく、お城内部の見学は日本語と、そのほかの言語の二つのグループに分けられた。「後ろ……たぶん同業者」と日本女性たちを警戒する彼氏を微笑ましいなあと思いつつ、ハンサムなドイツ人兄ちゃんのガイドに従って城に入る。各ポイントではCDプレイヤーにセットされた解説を聞く。城といっても、こぢんまりとした館という感じ。内部は飛び出す絵本のように彫刻が施されていて、なかなか仰々しい作りになっていた。


時間が限られていて、庭園を満足に散策できなかったけれど、晴れた夏の日をこの城で過ごしたらさぞかし気持ちの良い一日になるだろう。

バスはリンダーホーフ城を離れ、フレスコ画で彩られたオーバーアマガウに立ち寄る。ここでトイレ休憩とお土産屋散策に1時間の時間が取られた。僕らはカフェでひと休み。大阪にいたことがあるという地元のおじいちゃんと彼氏がおしゃべりしたり、ケーキを食べて1時間を過ごした。


そしてバスは、今日最大のハイライト、ノイシュヴァンシュタイン城を目指す。