ポケモンGOは、みんなを笑顔にする

関東にやっと夏日が戻ってきた。
隅田川じゃ盛大に花火大会が開かれている今日、僕は千葉ポートタワー付近をウロウロしていた。

千葉ポートタワーとポートパークは、レア系ポケモンが出没するという噂があって、僕も半信半疑出かけてみた。無料駐車場があるので、運が良ければ朝から21:00まで車を止めてポケモンGO三昧ができる。

現地に到着して程なく、円形芝生広場にこの方が……。


慎重にボールを投げて、運良くゲット。
そのあともポニータ、マンキー、コイル、イシツブテ、ビリリダマ、ゴルダックやらを捕獲、サンドやカラカラもちょくちょく出没する中、ふたたび駐車場付近でこの方が……。


さらにスリープ、オムナイト、ゼニガメ、フシギダネ、ニャース、パウワウ、ヒトカゲをゲットしていると、トーテムポールの近くで、この方が……。


CP値はさておき、ライチュウが手に入るとは。

ケーシィ、ゴースト、ポリゴン、マタドガス、ワンリキー、ルージュラ、ミニリュウを狩っているうちに、大物が……。
ハイパーボールを投入して、死闘を繰り広げて手に入れたフシギバナ。
めちゃくちゃうれしかった。

ポケモントレーナーは200人くらい集まっていただろうか。
ワカモノはともかく、ポケモンGOを楽しんでいる60代の夫婦を何組か見かけた。
それも旦那に付き合わされたおばあさんじゃなくて、おばあさんもスマホでポケモンを捕まえている。
肩を寄せ合って、ニコニコ笑顔。とても楽しそうだった。

クソゲーという声も聞くけれど、ポケモンはその場所にいる人たちの前に、それぞれのレベルに合わせた強さで平等に現れる。1匹のポケモンを争うのじゃなくて、みんなで分け合える。争いのない世界。みんなが笑顔、ニコニコ笑っている。みんなを笑顔にするゲームってコンセプト、僕は全力で支持したいと思います。

ランチはパーク入口にある「ポルトイタリアーナ」で摂りました。


ポルチーニ茸を使ったボロネーゼ。濃厚な味付けで美味しかった。
ティラミスとアイスのデザートを突きながら、直射日光で疲れた身体を休めました。
ご飯を食べながらポケストップにタッチできるので、重宝できるんじゃないかと思います。

18:30頃に引き上げた。
陽に当たって疲れたけれど、本当に楽しかった。

夏のいい思い出になりましたよ。

では、みんなポケモンライフを楽しみましょう。

ポケモンGOのために都内へ出撃

ポケストップを効率的に回るため、都内に出撃。
なんとなく、アキバあたりが熱いんだろうなと思い、末広町で下車してアキバ界隈をグルグル歩く。

2時間ほどでiPhoneのバッテリーがヤバくなってきたので、お昼ご飯を食べる。
そして、11:30過ぎから中央通りに臨むネカフェの窓際の席を占拠して、近くのポケストップを触りまくり、レアキャラが出てくるまで雑魚を捕まえてレベル上げに励んでおりました。

ポケモンGOのルアーといえば、これからマーケティングツールとして有用とか言われているけれど、今日の午後のアキバの様子を見よ。なんとまあ、祝祭的な様子であること!


金満東京の実力を思い知れ、って感じだろうか??

ショップなのか、ユーザーが仕掛けているのかわからないが、通り一面が花吹雪。
そのせいなのか、iPhone6の処理が追っつかないみたいで、しょっちゅう熱暴走でフリーズ。
データは飛ばないから別にいいんだけど、本体の熱いこと。

で、17:30過ぎにアキバを出て、神田→日本橋→銀座と歩いて帰宅しました。

帰宅した時点でレベル15。
まだまだ先は長そうだ。


ポケモンGOはおもしろいですね!

先行国で話題になっていたので、楽しみにしていたポケモンGO。
ポケモン、やったことないんですけど、ダウンロード開始のニュースを聞いて、すっ飛んできました。

ランチを食べに外出した時、最初にゲットしたのが「ピカチュウ」。
あれから二度と出現せず、進化させられなくて困っているんですけどね。


勤務先のビルにはポケストップがいくつもあって、その上に執務エリア。
ゲームを起動させっぱなしにしておくと、GPSの揺らぎでポケストップの間をアバターが勝手に歩く。
しかも、程なくルアーを設置するバカが現れて、仕事が手につかない(w


昨日の16:00台はレベル4
今日はレベル10に成長しました。

今日一日で歩いた距離、約16kmです。
ルールが良くわからないので、これから高校生の甥っ子に電話するつもり。

ややレアっぽいキャラは、ピカチュウ、ストライク、フシギダネ、ゼニガメくらい?
10km歩いて卵から孵化したのはイーブイでした。

まっとうに考えれば、日本は中国共産党から侵略行為を受けている状態だろう。

連休最終日の今日、付き合いで「とと姉ちゃん」を見せられた。
本編はどうでも良いのだけれど、その後に続いた「暮しの手帖」秘話みたいな放送が面白かった。
初代編集長の花森安治氏の「ジャーナリズムとは、ただ情報を伝えるだけじゃあないだろう」という言葉がとても印象深かったんだ。

敗戦後に創刊された雑誌だから、反戦意識も強かっただろう。
96号の『戦争中の暮しの記録』なんかは、すぐれたドキュメンタリーだったのだろう。
そんなものを読んだら、二度と戦争はごめんだという気持ちになっただろう。

ジャーナリストは「王様は裸だ!」と告げる役割を負わされた存在なのだと思う。
端的に言えば、「現在日本はアメリカの保護国で、現在進行形で中国共産党から侵略行為を受けている」と国民に警鐘を鳴らすのがジャーナリストの仕事ではないのか?

外務省は「中国を刺激するな」というが、海警の船やら軍艦が日本の領海とその接続水域に侵入している様は、先入観なしに語れば「中国共産党の暴力装置が、侵略行為を行っている。それを政府とメディアは糊塗している。あまつさえ、朝日新聞・毎日新聞は中国共産党の侵略行為を容認するような言説を垂れ流して、国民を間違った方向へ導こうとしている」としか考えられない。チベットで、ブータンで、インドの北で、南シナ海で中国共産党が何をしているのか。侵略と不法占拠だ。尖閣諸島付近への軍艦進入は、それと類似行為である。中国共産党から侵略行為を受けていると、日本人は正しく認識すべきではないか?

国際法は大事だ。
それを「ただの紙切れ」と言ってのけたのが中国共産党である。

国際世論が許すはずもない?
中国共産党がチベットで行っているエスニッククレンジングに、国際世論がなにか役立ったと言えるだろうか?それが日本で再現されないと言い切れる根拠を示したメディア・ジャーナリストを僕は知らない。せいぜいアメリカ軍がいるから「うかつに」は手を出せないだろうという希望的観測と、願望にすぎない。

戦争は避けられるなら、避ければいい。
現場は悲惨なことになること間違いなしだから。
だが、戦争を挑まれている時、相手が「核心的利益」とターゲットを定め、力でもって奪い取ることを躊躇していない状況で、最終的に話し合いで解決できるなんてことを、考えないほうがいい。

嫌な例えだが、服をはぎ取られ、下着に手をかけられている女性が「やめて!話し合えばきっとわかるわ!」と言ったところで、レイプ犯が手を止めると思うかい?ひょっとして手を止める可能性は否定しない。そのかわり「じゃあ、お前の妹を差し出せ!」と代償を求められる。自分の痛みを先延ばしするために、誰かを生贄にした罪をかぶる勇気を、日本国内の平和主義者が持っていると僕は思わない。いや、彼らはご都合主義者だから、それを罪だとすら認めないだろう。

東京スポーツ2011年1月1日の記事で森永卓郎氏が、こんなことを述べていたことを思い出す。

「私は日本丸腰戦略というのを提唱しています。軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれればそれはそれでいいんじゃないかと」。

正月の記事に、こんな痴れ者のコメントを引っ張ってくるのは、東スポなりの逆説的警世の論だろうか、といまなら苦笑して読むこともできる。当時はかなり衝撃を受けた。字面通りに受け取るならば、狂人の戯言だ。これが正しい見識なのかと。後世の教科書に「昔、こんな愚かな民族がいました」と書かれるくらいなら、「全滅と引き換えに中共人民解放軍を半殺しの目に合わせた誇り高い、勇猛な民族がいました」の方がまだましだと僕は考えていたから。

戦争は悲惨だ。
戦争を賛美するつもりは全くないが、戦争行為に直面するかもしれない事態に、その打開方法について思考停止するのはいかんじゃろ。中国共産党が自分たちの生き残りのために戦争を仕掛けてくるのならば、僕らは自分たちの生き残りをかけてそれを押し返さなくちゃならない。

歴史に学べという人たちがいる。
そういう人たちにとって、塩婆(=塩野七生)は天敵だろう。
なんども引用してきた「レパントの海戦」で、コンスタンティノープル駐在ヴェネツィア大使マーカントニオ・バルバロの演説こそ、僕らは歴史に学ぶべきだろう。

国家の安定と永続は、軍事力によるものばかりではない。
他国がわれわれをどう思っているかの評価と、他国に対する毅然とした態度によることが多いものである。
ここ数年、トルコ人は、われわれヴェネツィアが、結局は妥協に逃げるということを察知していた。それはわれわれの彼らへの態度が、礼をつくすという外交上の必要以上に、卑屈であったからである。ヴェネツィアは、トルコの弱点を指摘することをひかえ、ヴェネツィアの有利を明示することを怠った。
結果として、トルコ人本来の傲慢と尊大と横柄にとどめをかけることができなくなり、彼らを不合理な情熱に駆ることになってしまったのである。被征服民であり、下級の役人でしかないギリシア人にもたせてよこした一片の通知だけでキプロスを獲得できると思わせた一事にいたっては、ヴェネツィア外交の恥を示すものでしかない。


ヴェネツィアを日本に、トルコを中国共産党に置き換えれば、そのまんま現代でも通用する話だ。

この先は武力衝突が起こるか、経済クラッシュで中国共産党が崩壊するか、そのどちらかだろう。
日本は李氏朝鮮の末期のような、中国共産党に国を売るという選択肢はありえないわけで、だとしたら武力衝突も念頭に置いた政治的オペレーションが、結果として多くの国民の命を救うことになる。武力衝突の可能性と、それに勝ち抜くことの備えを語らないから、野党はリアリティがない。戦争は避けたいが、大国が戦争を望んでいる以上、戦争は発生するのだ。日本には選択肢はなくて、その時は受けて立つしかない。受けて立たねば、その先にあるのは中国共産党に虐げられ、二等市民に落とされた半奴隷生活だろうよ。

長々と書いたが、だから、野党を僕は全く信用していない。
自民党を倒すのは簡単だ。
反自民、アベを許さないというのは政策でもなんでもないただの願望。
自民党より良い政策で、ちゃんと予算的裏付けもあり、「国民の生命と財産を間違いなく担保しうる」政策を訴え、それを実現できる目処を提示さえできれば、政権交代なんて簡単だ。

平和はいい。平和バンザイだ!
だが、平和は結局あらゆる均衡の上に成り立っていて、その均衡が破れたいま、軍事衝突を躊躇しない隣国を話し合いで制御できると主張する政党は、現実感を失っている。だから、野党はいつまでたってもゴミ扱いされるのだ。

BL漫画レビュー:大槻ミゥ『運命の男』

小説好きな人なら山崎豊子の遺作を連想させるこのタイトル。
恋のお相手は「運命の人」なのか!?

カフェオーナー・ロミオは大の女好き。
そんな彼がゲイバーで出会った浅彦に一目惚れしてしまう。
その夜、激しく燃え上がったふたりはセックスの相性もバッチリ♥
だけど浅彦にはヒミツの性癖があるようで?

主人公の名前が「ロミオ」という時点で、本を投げ捨てたくなる衝動にかられる。(w

まあそれはさておき、大槻ミゥ作品の登場人物は、いつも秘密を抱いている。

「愛しいカラダ」のときは、「パイパンでもいいじゃん どんなお前でも愛しいよ」で盛大に吹き出した。
運命の男が隠し持っていた秘密とは……



ただ…
し…しゅみ…って言うか…

アナニーが……すきなのっ

あーあーあー、今回も業が深いな大槻ミゥセンセイ。


その後の浅彦の告白によると、女の子と初体験で苦い思い出があって、一人Hがだんだんエスカレートしてアナニーにはまったと。浅彦自身はゲイではないけれど、「道具で気持ちいいんだし実際どうだろう」って思ってゲイバーで相手を探していたという。

なるほどなあ……。

とある掲示板で、SM嬢に掘られているうちに本物が欲しくなってしまった男たちの書き込みを読んだことがある。初めは痛みと屈辱に震えていたM男が、抱くより抱かれる側の気持ち良さと、身体をこじ開けられる刺激を知るようになって、本物が欲しくなってゲイのハッテン場に出入りするようになる。抱かれている間は女性の感覚になり、自分の上で必死に腰振る男が愛おしく見えてくる。セックスが終わった後、嫌悪感に沈む人と、抱かれる感覚でより女性方面へ行ってしまう人がいるようで、その戸惑いを赤裸々に語るM男たちの告白は実に興味深かった(湯川教授風に)。

幅広いボーイズラブの世界は、基本、恋愛至上主義なんだと思う。
それはボーイズラブの源流が少女漫画にあることと無関係じゃない。
「運命の男」のように、超女好きのロミオと、アナニーマニアのノンケ浅彦の出会いのように、体から始まって恋人関係になるというパターンはやや少数派。だが、こういうパターンもたまにはいいと思う。

1.絵柄
フワッとした感じの浅彦キャラクターデザインは、大槻ミゥの定番。アパレル業界や美容師にいるようなやや中性的な造形だが、大槻ミゥの場合は脱ぐとエロくて淫乱なのがよろしい。
ロミオは口ひげのあるカフェオーナー。髭は苦手だ〜。

2.ストーリー
あらすじに書いたとおり。それ以上でもそれ以下でもなし。
大槻ミゥ作品の登場人物は、マニアックな性癖を抱えているケースが少なくなくて、それが解放されてゆく様を眺めているのは、子供の成長を見守っているようだ。もっと業の深い設定に期待したい。

3.エロ度
アナニー好きを拗らせて本物が欲しくなってしまった男たちの告白があるくらいだから、浅彦みたいなノンケも存在するのだろう。美青年のアナニーをかぶりつきで見学は美味しいかも。

4.まとめ
可愛らしい顔して特殊性癖の持ち主……大槻ミゥ先生には業の深堀を追求して行ってもらいたい。

絵柄 :★★★★☆
ストーリー:★★★☆☆
エロ度 :★★★★☆
(あくまで個人的主観に基づく★の数です)

目が回る位なら酒を飲むなってことで。

ベッドの中で目を開けたら、天井がぐるぐると回転した。
吐きたいような気持ち悪さではないのだが、これもやっぱり二日酔いなのだろうか?
完全な闇を保っているホテルのベッドで、彼氏はスウスウと寝息を立てている。
ソーヴィニヨンと相性が悪いのに続き、泡もあまり向いていない体質らしい。

週末、来日している彼氏とフラフラと散歩した。
お金のかからない社会見学ということで、四谷の迎賓館見学へ出かけた。
予約があると尚よいが、当日券が入手できればスルッと潜り込める。
13時過ぎの、予約と予約の間を縫って、僕らは迎賓館に潜入した。

紀伊徳川家江戸中屋敷跡の「一部」に建てられたという迎賓館。
赤坂見附のニューオータニを遠くに見ながら、なんという広大な屋敷だったのかと呆然とした。



迎賓館内は写真撮影禁止。
首脳会談などの写真が展示されている。
内装は……ベルサイユ宮殿を小型化した感じで、規模はベルサイユにはまったく及ばない。
だけど、現役で使用されている建物なだけあって、「生きている」感じはする。
見世物の遺跡や遺構ではけっしてなかった。

敷地内のベンチに腰掛けて、しばらく風に吹かれていた。

迎賓館を出て、四谷駅前のPAULでひとやすみする。
よく冷えた店内でくつろいでいると、ひたすら眠気に襲われる。


日が暮れるとオーストラリアンワインBARで飲む。
そしてグダグダになって帰宅する、という繰り返し。

来月、青森で彼氏とどんな遊びをしようか、いまから楽しみで仕方ない。

上高地に滞在していました

行くたびに雨に降られ、涙を飲んできた上高地。
昨日土曜日はひどい降りでしたが、今日は素晴らしい晴れ日でした。

晴天の上高地では、どこでシャッターを切っても絵葉書のような写真が撮れます。
河童橋上から穂高連峰を眺めてきました。
こんなに美しい風景は、日本国内では上高地だけだと思います。

iPhone6ですら、こんなクオリティの写真になります。

指原ペディアつーものを見てました

テーマは「ゲーム」。
真っ先に取り上げられたのが女性向けの擬似恋愛ゲーム。
あれは、僕には不思議に思っていることがあって。

女性向け擬似恋愛ゲームって、多分10年とかそれ以上前から変わらない、立ち絵・紙芝居型ゲーム。
一方で男性向け擬似恋愛ゲームときたら、VR技術を駆使しておっぱいぶるんぶるん。
テクノロジーの無駄遣いにも見える男性向けと、声とシチュエーションで魅せる女性向けの差はいったいどこにあるのだろう。

女性向け擬似恋愛ゲームのボイスは、僕が普段接している男性の声に比べ、一段低いような気がする。
一方で男性向け擬似恋愛ゲームのボイスは、一段高くて、子供っぽい味付けのように感じる。

ここら辺の差異について、ちょっと知りたいような気もする。

ここしばらくDeep learningの環境づくりに勤しんでおりました。
とりあえず、今日エラーが取れたので、色々と勉強するスタートラインに立ったわけですが。

「用途のない備忘録」が今年に入って106件の記事がアップされているわけですが、Deep Learning向けの覚え書きブログの記事が5月以降で30件になってる。BL漫画そっちのけで週末は「動かねー、エラーが取れねー」と格闘していた成果。

それにしても自分のブログ含めて、ネット上の情報は本当に玉石混交だと思い知ったよ。
Qiitaの記事も当てになったり、ならなかったり。
「たまたま自分の環境では成功しました」みたいな記事も少なくなかったみたい。
そういう僕の覚え書きも「たまたま自分の環境では成功しました」に近いのだけど。

小田嶋隆は好きではないが

今週の『小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明』の問題提起は同感できる。

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 まずひとつ目は、今回の投票結果を踏まえて「ポピュリズムの怖さ」という言い方が蔓延していることの不気味さについてだ。

 もう少し詳しく言うと、ここしばらく、メディアに載る記事やテレビの中で紹介されるコメントの中で「民主主義」という言葉と「ポピュリズム」という言葉が、無造作に使い分けられている感じがして、そのことがずっと気になっているということだ。

 なんというのか、投票や世論調査の結果で、望ましくない結果が出た場合に、その結果をもたらした調査の過程や投票の背景を「ポピュリズム」という言葉で分析している同じ人間が、望ましい投票結果については、「民主主義の勝利」「民意の重い選択」という言葉でそれを賞賛している感じがしているわけです。

 悪い結果はポピュリズムの作用で、良い結果は民主主義の成果だと言っているその人たちの中で、両者の区別はついているのだろうか。区別がついているのだとして、その区別の根拠は、自分にとっての結果の好ましさ以外に、何があるのだろうか。
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出典:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/063000049/


このメディアのダブルスタンダート、もっと言うと特定メディアの中の人のダブルスタンダードが、世の人たちから「メディアは胡散臭い奴らだと」足元見られる原因。このご時世にもなって「世論は自分たちが作ってゆく」というメディアの傲慢(あるいは扇動か?)に、まともな知的レベルの人達はちゃんと気づいている。メディアはなめてんじゃないよ。

同じことは「ヘイトスピーチ」「ヘイト」という言葉にも現れている。
自分の気に入らないことを「ヘイト」と決めつけるサヨクのご都合主義、身勝手さをみんな知っている。

最近僕は「知識人」という言葉について、こう考えている。

「それは、どっち方面の知識人なの?」

すでにバレているように、メディアが呼んでくる知識人という連中が、決して人格者ではないということ。また「知識人」というならば、エロ方面の知識人でも、変態方面の知識人でも知識人は知識人のはず。なのに、どうしてTVに登場する「知識人」はいつも同じ顔ぶれで、自分の専門外の分野に対して適当なことを喋っているのか。

その程度の知識人ならば、とげぬき地蔵あたりからバァちゃんを呼んできたほうがマシかもしれん。知識はなくても、人格者かもしれない期待感は残るから。