後朝の文

1980年代にパソコン通信ってのがあって、90年代にはいるとケータイ電話が普及、20世紀の終わりにケータイメールサービスが始まってから、コミュニケーション密度はともかく頻度はすごく上がったように思う。とくにケータイメールはすごいよね。
2ちゃんねるの恋愛板あたりをのぞいていると「メールが返ってこなくなった ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ 」みたいなスレッドがいくつかあって、みんなメールに一喜一憂しているんだなって変な連帯感を感じたりします。

自分が送ったメールにいつまでたっても返信がないと、気になりますよね。

恋ひ死ねと するわざならし むばたまの 夜はすがらに 夢に見えつつ (古今集)
(焦がれ死にしろということか、あなたが一晩中夢に出てくる)

スレッドではメールが返ってこない、あるいは返信があるまで時間がかかることについていろいろと分析がされているのが興味深いのですが、理由は二つあるようです。1つめは相手が自分に興味がない場合……悲しいけれど、これは対処のしようがないですよね。
二 つめはメールを「情報の伝達手段」と割り切っている人と、「感情を伝える手段」と考える人との間に存在するギャップ。このギャップはけっこうしんどいです。僕もビジネスメールは用事を伝えるための手段と割り切っていますが、プライベートメールは思いっきり後者なので、お返事がないと凹むクチです ('A`)

電話で話していてもいいんですが、短いメールに込められた相手の感情をくみ取り幸せを感じるのは、古の時代からの「後朝の文」 に通じるものがあるんじゃないかなって僕は思ったりします。二人が別れたあと、どのくらい短い間に、心のこもった文章が届けられるかによって、相手の情の深さをはかっている、そんな部分があるんじゃないかと。

たまたまご縁があって、食事をしたり、身体を重ねたりする関係ができたりします。 「それではまた」と別れの挨拶をして、それぞれが帰りの電車に揺られて家路につく。食事のあとならば少し飲み過ぎたワインで意識がゆるんでいたり、身体を重ねたあとならば情事の残り火に焦がされながら、車窓を流れてゆくビル群を眺めている。そんなときにケータイが震えて「今日は楽しかった。ありがとう。今度はいつ会える?」なんていうメッセージが届くと、とても幸せな気分につつまれる。だから僕からはできるだけ早めにメールを送るようにしている。

最速だったのは、元カレ。
新宿駅東口で別れたあと、彼は埼京線、僕は山手線ホームへ。
人で溢れるコンコース。15番線ホームをめざして歩いているとメールが着信した。

「今日逢えてうれしかった。今度はいつ会える?さみしいよ」

人混みの中で、ちょっと泣きそうになった。
いま思うと彼は帰国子女だから、「逢えて」なんていう漢字は使えなかった気もするけれど。彼からのメールはいつもひらがなが多かった。

こういうのを後朝の文というのだろう。

我を思ふ 人を思はぬむくひにや わが思ふ人の 我を思はぬ(古今集)
(私を思ってくれる人を思ってやらない報いなのだろうか、私が思う人は私を思ってくれない)

コーヒータイムに昨日アップできなかった文書をスルッと掲載(笑

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