硫黄島からの手紙 (´;ω;`)ウッ…

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大学生時代、一般教養の授業でE・H・カーの"歴史とは何か"を読んだ。
すでになんの授業のコマだったのか覚えちゃいないのだが、そのテキストの中の「歴史は現在と過去の対話である」という名文が記憶に残っています。

平日の月曜日だというのに丸の内ピカデリー1で"硫黄島からの手紙"を見てきました。"ミリオンダラー・ベイビー"がボクシングネタではなく、実は「人間の尊厳ってなにか?」という問いかけであったことを経験していたので、本作品がカドカワハルキあたりが好むような代物ではないだろうなという予想のもと、映画館の扉を開いたのでした。

本日最終回の上映は、お客の入りが半分くらい。
館内は異様に静まりかえっていて、携帯の着信や、客同士のおしゃべりもなく、咳き一つない中、ひたすらスクリーンを追っかけてました。"二宮和也"の演技が光っていた。日本人のひいき目ですが、アカデミー賞を取っても不思議ではないすばらしい内容だったと思います。

映画批評では本作品が高く評価されつつ、同時に「なぜこの作品を日本人が作れなかったのか。悔しい」という声をたくさん見かけました。それは無理です。僕ら日本人は「戦争」をモノクロ写真の向こう側に押し込めてきた。日華事変以降の事実を記述・検証し、かつそれを後進の者に伝える努力を怠ってきたという点があげられるかと思います。そして最大のポイントは、アメリカという国は太平洋戦争後も多くの戦争を経験し、兵士を戦地に送り込み、そして現在も戦時下にあるという事実でしょう。「戦争」を忘却しようと逃げ続けてきた国家(=国民と言ってもよいかもしれません)と、いまも戦争が続き、戦争と向き合い、対話し続けている人々とは考える深さも、洞察力も、スケールがちがっているはずだと僕は思います。
"父親たちの星条旗"で政治の醜さと リアリティを描き、"硫黄島からの手紙"では戦場の兵士たちの苦しみ、想いが描かれています。「日本人の姿をよくここまで描いてくれた!」という賞賛はありますが、"硫黄島からの手紙"は日本人のために作られた映画ではないでしょう。たまたまモデルが日本人だっただけ。
アメリカ軍のミサイルが飛んでいく先には血が通った人間たちが生きているのであり、アメリカ人からは不可解な思想であり行動のように見えたとしても、そこには必ず血の通った人間が息づいているのだという事を作品は伝えようとしています。
戦場に赴く人たちは集団になるとおかしな事をしでかすかもしれないが、一人一人は両親、兄弟、恋人、子供、恩師、友達を想う心優しい人たち。彼らを戦場に放り込むのはいつも政治。愛国心を煽る(僕は愛国心を否定する者ではありませんが)欺瞞と汚さはいつの時代も変わらない。兵士の苦しみも変わらない。硫黄島はその一つのケースにすぎないのです。

クリント・イーストウッド監督はよい仕事を成し遂げたと思います。
逆にアメリカ視点の"硫黄島"を日本人監督が制作できただろうか?という問いを立てるとひどく虚しい気持ちになる。日本軍から放たれた砲弾の下で、アメリカ人兵士たちがどんなに 怖い思いをして震えていたのか、僕ら日本人はいまも想像力欠如したままでわかっていないのではないでしょうか?

この作品は高い普遍性を持つとともに、現在のアメリカ政府、アメリカ人の考え方に警鐘を鳴らす優れた作品だと僕は感じました。そして日本人に対しては、戦争を「歴史」の中に押し込めてはいけない。戦争について、僕らは対話し続ける努力を惜しんではならない、と諭してくれているように僕は感じたのです。

今日はシリアスなお題でした。

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