空の青さ

で、本日2度目の更新になるわけです。
昨日首都高を飛ばしている最中にケータイがブルって、修理に出していた液晶モニターが戻ってきたことを告げた。ランチの帰り、自宅を横目に隣町までクルマを飛ばしてモニターを回収してきたんだ。

やっぱり多めの文章を書きたいとき、イメージ加工をするときは、デスクトップパソコンの方が効率が良くて使っていても気分いいなぁ~とあらためて思いますね。ノートPCの時は文章を書く気になかなかなりませんでしたもの。

さて、Eugène-Louis Boudin(ウジェーヌ・ブーダン)の作品掲載もすでに8回におよんでますが、明後日ぐらいにイイ感じの海岸風景が登場する予定です。
ブーダン自身は評判だったトゥルーヴィルの海水浴系の作品制作を1867年頃を境にやめてしまいます。彼が書いた手紙の中にこんな一節があります。「あれほど好きだったトゥルーヴィルの海岸は(旅先から)帰ってみるとおぞましい仮装舞踏会にすぎませんでした。あの気取った遊び人たちの群れから何かを生み出すには天才が必要でしょう。骨の折れるつらい野良仕事で疲労困憊し、黒パンと水だけで生きているこれら(=ブルターニュ)の農民と一ヶ月近くを過ごした後では、金ピカにめかしこんだ、得意満面の居候たちの群れを見ただけで哀れをもよおし、これら怠惰な金満家たちを描くことは恥にさえ思われるのです」ブルジョアの虚栄に満ちた姿を描いているのに嫌気がさしてしまったのかもしれませんね。

逆に僕が好きなのは、ブーダンが嫌ったブルジョアを描いた海岸の絵なのです。
以前にも触れましたが、ブーダンの描く空の青さは、宗教にも、現代人のメランコリックにも汚されていない、幸福感をたたえた青さと僕には感じられるのです。 年表を見るとわかりますが、ブーダンが描いた風景は、王制が打倒された後に共和制が発足し、産業革命のおかげで経済的にブルジョワジーが台頭してきた時代です。宗教、政治、経済から自由になった人々が、真の市民生活を楽しんでいるさまを印象的に切り取ったものがブーダンの絵である、と僕は考えています。市民生活を謳歌している人々の頭上に広がる空……それはサン=テグジュペリが畏れ、愛していたような、まだ人間に汚されていない、見つめていると自然に涙が出るほどに愛おしい青さなのです。映画だとヴィスコンティ作品に出てくる青さはこれに近いのかもしれません。

最近よく空を眺めています。
季節によって、場所によって、雲の形と空の青さがこんなにも変わるものなのか、といい歳をして驚かされています。そしてブーダンが描いた空は、やはりフランス セーヌ川の河口になるノルマンディー地方の空なんだなって思います。去年、レンヌ駅からモン・サン=ミッシェルを目指してひた走るバスの中から見たそれを思い出します。灰白色の干潟の上に広がる空は、限りなく透明感をたたえた幸福感に満ちたものでした。

今週は東京もよく晴れるらしい。
どんな空に会えるんでしょうね。

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