藤田嗣治展に行ってきたよ

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よく晴れた心地よい週末だったので、藤田嗣治展に行ってきました。
竹橋はリュックサックを背負った初老の男女でごった返していました。一部は北の丸公園へ流れて行き、残りは国立近代美術館へ。まったく定年退職後の団塊の世代の方々は元気だね。

藤田嗣治という画家のアウトラインはこんな感じ。

現在においても、フランスパリにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ 派)の代表的な画家である。

特別展の会場に入ると、自画像からスタートして数枚目で「乳白色」の絵が始まる。あらかじめ言っておいた方がよいが、僕は藤田嗣治の絵は苦手の方だ。今回は、なぜ藤田を好きになれないのか、じっくり調べてやろうと思ってやってきた。


すでにこのブログでもさんざん書いているように、僕は"印象派の描く蒼い空"が好きな男だ。まず藤田の「乳白色」の絵の前に立ってみた。確かに不思議な白さ。キャンバスの大部分は乳白色で、それに微妙な濃淡がある。牛乳の中に漂っているというか、フレスコ画の微妙な凹凸が作り出す濃淡に近い。幻想的でもある。
一方不思議なのは、裸婦たちの描き方。なんというか官能的という感じがしない。恥じらっているというより、なんか悲嘆にくれているような感じ。ふむむむむ。瞳だけが黒々としていて、吸い込まれるような力強さはある。

画家が裸婦を描くときのパッションってなんだろう?
たとえば若いころのミケランジェロ作品の前に立つと「なー、ここの筋肉の感じいいだろ?ほらここのひねったボディラインが作る印影のところとか……ちゃんと見てる?ほらほら、いいだろ!?」とまぁ、ミケランジェロ自身の欲情と自慢が伝わってくる(気がする)。
僕はゲイだが、きれいな裸は男女ともにちゃんとわかるし、それを描いたり、撮影している人の欲情も感じ取れる方だとは思う。
藤田の裸婦からはそういうアピールが伝わってこないんだよね。なぜ裸の女性を描きたいのか?肉体の美しさを余すことなく表現したい……という感じでもなさげだし……なにか悲劇性を帯びたメッセージがあるわけでもなさそうだし。僕のチューナーは彼のパッションを拾い上げる力がないのでしょう。それよりも裸婦の隣にいる"猫"。彼らの表情はとても豊か。描き込まれた毛艶の美しいこと、くねらせた身体の柔らかなこと……こちらの方から「どう?ちょっといいでしょう?」というメッセージが伝わってくる感じがするんだわ。脇役に関心がいっていていいのかな???

それから、彼の作品って油彩なんだが、なんというか、リトグラフのような線画なんだよな。キャンバス上に、黒い硬筆で区切られた空間と曲面があるという感じか?近くで見るとイラスト的というかマンガ的というか……デッサンが歪んでいてヘタウマに近い印象すらある。猫をのぞいてね。^^ 猫がたくさん描かれている作品なんかは、まるで鳥獣戯画のノリだった。

その他に戦争絵画は迫力はあったが、平凡な作家のそれとあまり変わらない。
子供を描いた一連の作品は、着色写真のような色遣いで、かつ"キモカワイイ"感じで、女子高生向けアートグッズにしたら流行るかも。^^
最後の宗教画はこれも不思議で、南米に滞在していた影響か、エル・グレコに通じるようなスパニッシュ独特の風合いが盛り込まれている。だけど……あんまり絵からパッションが伝わってこないんだよな。ふむ。僕は藤田さんとあまり相性が合わないようだ。(苦笑)

こんな事を書いていると、野獣はどんな反応をするのやら。
目を細めるのか、肩をすくめるのか。
どうなんだろうな…… ^^

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