外出なんで、さらりとね。
裸になることとSexなんぞについて書きたくなった今日の2作品。
素材は 紺野けい子 『Love Me Thru The Night』と
羅川真里茂 『NewYork NewYork』
横文字の作品がふたつ並びましたね。
友情と恋愛のさかいめはどこだ…? 名古屋に単身赴任中の親友・時田ひろは実家があるにも関らず、上京すると必ずオレ(柏木律)の家にやってくる。オレがゲイで、密かにひろに恋心を抱いているとも知らず…
Love Meのテーマは"10年愛"というところか?ストーリーは、主人公二人が24歳の時から始まる。出会いは14歳。きっかけは中学時代のバスケ部という設定。二人の関係の奥行きを広げるため、学生時代のころのエピソードは回想として挿入され、ハッピーエンドに向けて律の想いの深さをうまく表現している。
「紺野うめぇなぁ~」と思わせるのは、エピソード1と2の落差だ。エピソード1は10年来の想い人のために食事を作る律のモノローグと、名古屋から律の家を目指しているひろのやはりモノローグだ。距離と気持ちがだんだん近づいてゆくのがわかる。一方で、二人が食事するためにはそれぞれ調整しなければならない相手がいる、という伏線がさりげなく表現される。「片想いでもいいや。とりあえず今夜ひと晩はオレのもんだし」と暖かい食卓で終わるのだ。いいね。
で、エピソード2は冒頭から「……が、人というものは、悲しくも。心と身体は別な物質でつくられているらしい」と律がセックスフレンドを犯している描写から始まる。10年愛を貫く一方で、現実の性生活を描写する落差にものすごいリアリティがある。竹宮恵子が『風と木の詩』のなかで「人は誰でも性の前に泥臭く汚れて行く」とオーギュストに語らせているが、言い得て妙だ。Love MEでは割愛されているが、律とセフレがどこで出会ったのか、あるいはセフレ貴文の前に何人の男がいたのか……とか追求してゆけば、そこにはきれい事じゃすまされない現実がある。
聖なるものを希求する自分と、泥にまみれた自分がいて。ひろを想って求めて、でも手が届かないから自慰にふける律がいる。それに対して、ひろの性生活についてはほとんど描写がないから、きれいなままだ。ちょっと狡いかなという気もするが(苦笑)。律の自慰は、"想い"という崇高なものと、"性"というエゴイステックで汚れた(としておこう)ものが交錯する象徴的なシーンなのだろう。
最終最後は両想いでハッピーエンド。やっぱりセックスで終わるのだが(笑)。聖杯を手に入れて、それを愛でる行為はうつくしい光景だ。物語はここで終わるが、その後に続く長い長い日常も、二人で幸せに過ごしていってもらいたいものだ。
さて、一方で、よりリアルゲイな"NewYork NewYork"
ニューヨークの警官であるケイン・ウオーカーは、オフの時間は同僚にも誰にも秘密で、マンハッタン、クリストファー・ストリート――ゲイの溜まり場へと出かけて行く。彼はそこで一夜の相手を求めるのだが、その夜は運命的な出会いをした。金髪碧眼の美青年、メル・フレデリクス。やがて二人は恋に落ち、 真剣に愛し合うようになる。ところがメルには以前恋人がいて、過去を知るにつけてケインは嫉妬を抱き、メルに冷たくあたるのだった。やがてメルは麻薬取引の現場に巻き込まれ、その犯人はそれは意外な人物だったのだ……
まぁ確かに舞台は外国だし、思いっきりファンタジーじゃないの?と言われれば「かもね」としか言えないや(笑)。僕はカストロストリートしか知らんし(爆)。
ケインは男前でセックスする相手には困っていない。ゲイということを隠すためにゲイバーで行きずりの男を拾ってセックスしているという設定。
ふむ。ありがち……かも(笑)。まぁ一夜の相手をいちいち自分の部屋に連れて行くか?と突っ込みを入れたいが、ゲイは下半身にだらしないという批判は一部真実だ。
一方メルはモノガミスト(一夫一妻制を信奉する人)である一方で、生活のために男妾をしていたという過去がある。
セックスに対して対照的な考えを持つ二人だが、孤独を癒すために行きずりの男と寝る男も、生活のために身体を売った過去を持つ男も、NewYorkというあこがれと現実の落差の激しい街でお互いにひどく孤独であって、その行為はたぶん無意味な時間つぶしだったのだろう。そして「性の前に泥臭く汚れて行く」人間が、セックスにちゃんと意味を見いだしたとき、それはあらためて輝きはじめるのだという希望も提示されているように見える。こちらは最後結婚、死別までストーリーが展開される大河もの。
蛇足だが。
ケインがメルのことを「理想が服を着て歩いていた」と表現するシーンがある。
よく考えると案外人間って他人の裸を見る事って少ないと思う。学生時代はそれこそ性欲とかなしで更衣室で着替えているが、普段、人を服をまとっている。服を着るって行為は人格を守る武装でもあるし、あるいは社会性を維持するための装置と記号でもある。服を「脱がされる」というのは武装を解かれるということ。 あとはもう「身体と中身」で対峙するしかないわけだ。僕は服を脱ぐ、脱がすという行為にそんな意味を込めている。
BL書評はいったんこれでおしまいです。
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