ぼくは、いつもさみしくて

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お昼休みに"須賀敦子全集第7巻"を買った。
帰りの電車で読み始めて、ちょっと失敗したかなって後悔した。
そもそもは文庫本裏表紙の帯にあるコピーに惹かれて買い入れたのだ。

もう四年になる。この四年、私は生きすぎてしまった。
あの頃知らなかった
「自由」による幸福の時をさえ持ってしまった。
もちろん、自由と孤独とは、
壁一重のとなりあわせである。
孤独を生きることをおぼえたところから
自由がはじまるのかもしれない。

ページをめくり始めてじきに気づいたのは、キリスト者としての彼女の著作は好きだが、彼女の訳した神父の説法にはまるきり興味がないって事だった。宗教者が信仰について熱心に語るほどに、その偏った主張に僕は違和感を感じるのだ。

とは言っても、そのコピーに惹かれたのには、たぶん理由がある。

以前から菊田まりこ著『いつでも会える』の中の「ぼくはいつもさみしくて」ってフレーズがずっと気になっていた。そして、最近わかったことがある。
たぶん、僕はかなりさびしがりやなんだと思う。それは誰かに癒してもらえるとか、なにかを信仰すれば救われるといった類のものではないような気がする。
ヒトの魂ってヤツは肉体の檻の中に閉じこめられている。だから、根源的なところからあふれてくる孤独感ってものを、僕は生涯抱き続けて生きてくんじゃないのかなって漠然と思うんだ。たとえ側に友達や、愛する人たちがどれだけいようとも。

別に今のところ生きることに絶望しているとか、そういう事じゃ全然ないんだ。でも、この絶対的なさびしさとは、自分が強くなることによってのみ、なんとか共存して付き合っていけるんだろう。

最近、そんなことを考えるんだ。

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