国際大学glocomの議事録を読んでいたら、こんなブログと記事が紹介されていた。
「らくだのひとりごと:席を譲らなかった若者」
http://rakudaj.seesaa.net/article/3130212.html
ソース記事を読んだが、くっついているコメントを含めておもしろいねぇ。
若者を擁護する人、老人を擁護する人、政治(年金制度)が悪いと言っている人、それは関係ないと言っている人、いろいろいる。ただ、一つはっきりしていることは「席を譲れといわんばかりの嫌味を言った老男性を擁護する人はいなかった」ということだ。
この議論をみていると視点が3つある。
1.遊んでいる老人と働いている若者という2つの対立軸。
2.年金をもらっている世代と、年金をもらえないかもしれない世代という対立軸。
3.「お年寄りに席を譲りましょう」とか「お年寄りを大切にしましょう」などというキレイごとを聞いて育ってきた世代の一人として、若者の言葉にちょっと共感している筆者。
もうなんか役者が揃ったなぁという感じだ。
こ のエピソードにみんなが熱くなったのは「老人ってなんだ?」「老人は社会的弱者なのか?」という正面からの問いかけがそこにあるからだろう。「お年寄りを大切に」「お年寄りを敬え」といったフレーズの胡散臭さはもうみんなが分かっていること。口に出さないだけという現実がそこにある。
この話は社会的常識とか道徳的視点が混じるからややこしくなっている。
まだ若造な僕の視点からしか語れないが、「老人という存在」は国家や社会制度が作り出している。定年退職という形で仕事から切り離され、年金が給付されて制度的に「老人」に認定され、楽隠居を強要される、という事実がある。老人は制度が作り出している。
ブ ログコメントでも指摘があるが、いまの60、70代前半はかなり体力もあって、さらに経済的にも強者である。つまり「老人=社会的弱者」という構造はあまりに画一的な考え方なのだと思う。その既得権に安住している老人も、その違和感を指摘しない社会(というか僕ら世代も)も、そこにねじれがあることが分かってるにもかかわらず思考停止して立ちすくんでいる。
若者の言葉は「一見正論」だが、自らを社会的弱者に設定し「キレた弱者」を演出して見せたに過ぎない。正直うまい切り返しだなとは思った。社会制度の問題を背景に一見クールな彼の言葉が、嫌味のなかに含まれていた老人世代の欺瞞を暴いて見せたところに、ブログ筆者は驚きと共感を感じたのではなかろうか。
老男性の嫌味は、疲れている女性を気遣っていたのか、あるいは女性にイイ格好をして見せたかっただけなのかは分からない。でも席に座っている人間に(社会常識とか道徳とかそもそも根拠が曖昧なものを背景に)譲渡を強要すべきじゃなかった。素直に「こちらの女性に席を譲っていただけませんか?」と頼んでみるべきだったのだ(もっとも席を譲るべき理由が見つからないほどに元気だったら、そもそも前提が崩れてしまうが)。
また若者も社会問題を背景に論駁するんじゃなくて、単純に「元気そうな人に席を譲る理由が見つからない」と言っていたら、彼個人の心情はもっと分かりやすかったはず。彼の言葉に周りの人(ブログ筆者も含めて)はダマされなかっただろう。
一 歩引いてみるとそれぞれが「社会常識、道徳論、現在の社会制度問題」をひっかぶって、実はコミュニケーション不全を起こしていたというのが、今回のエピソードの真相のような気がする。この状況では歩み寄りの可能性は見つからない。エピソード自体はいくつかの社会問題を示唆しているが、当事者全員がコミュ ニケーション不全について敗北しているという点で、無意味な結果に落ちている。
「お年寄りは敬われて、大切にされなければならない」という図式は、正直、老人世代も座り心地の悪いポジションなのではなかろうか?、と僕は考えている。「敬われる」には相応の理由が必要だし、「大切にされる」のも相応の理由がなければ実現は難しい。ほとんどの関係者にその理由が見つからない中で、フレーズだけが一人歩きしている。真に必要なのは「社会的弱者に 周囲の人間がサポートできるゆとりと思いやりのある社会の構築」のはずなのに。
「社会問題、制度問題」を絡めて自己主張する人を僕はあまり信用しないことにしている。こういう形で議論の展開をする人にはえてしてダマされやすいのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿