他人の功績を、己が成し遂げた事のような誇ること

これは恥ずかしい。
やってはいけないことと、自分に固く戒めていることの一つ。

隣国の半島に暮らしている住民は、大手メディア、ネットの言説を含めて、他人の功績を自分が成し遂げたことのように誇ることが多いなあと感じていた。

遥か大昔、百済からの亡命者を受け入れた日本を、自分の先祖が渡来しなければ未開国だったと彼らはいう。それは事実だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。だが、古代文化はすべて朝鮮半島が伝えて「やった」と彼らは言うが、それはどうかなぁと思う。遣隋使の時代から現代に至るまで、日本人は興味のあることは必ず本場に行って、勉強・修行してくる性質がある。支那へ勉強に行ったが、朝鮮半島に大挙して勉強に行ったという記録はないはず。せいぜい朝鮮半島にあった漢王朝の出先機関、または領土内にあった楽浪郡に立ち寄っているくらい。だから、朝鮮半島が文明・文化の中心というのはなく、朝鮮人が踏ん反り返るほどの功績はなかったんじゃないかと思う。

仮に古代日本文明が、当時の渡来人の寄与が多かったとしても、現代の朝鮮半島住民とは関係のないことだ。自分の功績ではないのだから。また、朝鮮半島に当時の文明が残っていたら、その伝来を受けた日本人は必ずそれを尊重するはず。伝統と正統性はほぼ同義と考えるから。そうならないのはなぜだろうか。

日本統治時代に朝鮮文化が根こそぎ破壊されたと言うが、それは嘘だと思う。例えばオランダに400年間植民地支配され、王族を根こそぎ殺されたインドネシアには、古くから続く文化が色濃く残っている。オリジナリティのある文化が存在していたならば、それは生き残っているはずだ。ジェノサイドがあったわけでなく、期間も35年間。もし文化の断絶があったならば、海外に住む同胞を含めて復興できただろう。存在しなかった文化を他人が抹殺したかのように語るのは、惨めなことだ。

スポーツでもそうだ。
イチローが3000本安打を達成した時、「アジアの誇り」と書き込んだ朝鮮人がいた。これはイチローの功績であって、僕を含めてほとんどの人がそれに寄与しているものではない。だとしたら「アジアの誇り」という感覚ではなく、「イチローはすげぇやつだ。自分も一角の者になりたい」と静かに決意するだけのこと。他人の功績を自分のもののように語ってはいけない。「アジア枠」を勝手に作って紛れ込むのは、日本では蔑みの目で見られる。部外者は混じってはいけない。

自国オリンピック選手がメダルを獲っても、それは選手と関係者が誇ること。メダルを獲れなくても、それは自国選手よりもっと強いヤツがいただけのこと。それだけだ。敵を侮って負けたのなら呆れはするが、全力を尽くして負けた者を甚振るのは品位の劣ること。

他人は他人、自分は自分。
他人の功績は他人のもの、自分の功績は自分もの。
努力した末に勝ち取った他人の功績は褒めてあげること。
自分の功績が褒められた時は静かに感謝すること。
他人の功績に背乗りすることは、情けなく惨めだからやらないこと。

この自他を区別することができるようになれば、半島も静かになると思うのだが……。
明日は敗戦の日ですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿