昨日は投宿して30分も経たないうちに激しいスコールが降りはじめ、僕たちはヴィラに閉じ込められました。今朝は上空には青空が広がり、ヴィラのプライベートプールで泳ぐ彼氏を眺めながら、キーボードを叩いています。
バンコクに向かうANAの機内で、僕は「ちはやふる」を読みふけっていました。映画「桐島、部活やめるってよ」を見るつもりでしたが、ざらついた液晶モニターに耐えきれず、iPadに向かってしまったから。
長く放置していた「ちはやふる」でしたが、機上で何度も涙ぐんでしまいましたよ。
愛だなあ、スコールのように降り注ぐ愛、ラム酒が溢れてくるバナナケーキみたいなものか。
「ちはやふる」は競技カルタに挑戦してゆく若者たちを描いたマンガです。
なぜ、「ちはやふる」が愛なのか。
主人公たちは、競技カルタを愛しています。
その課程で、主人公「千早」はいろいろなことに気づかされてゆきます。
超一流の歌人藤原定家が撰んだ、美しい古今の一流の和歌。
古いものは1000年の古に詠まれたもので、1000年間先人が守ってきた大切な遺産であること。
作法……袴姿で競技に出ること。
仲間の大切さ。
ライバルの大切さ。
誰よりも情熱と愛をカルタに注いでいて、自分にカルタの楽しさを教えてくれた師匠。
すべてが愛でした。
先人の情熱と、後継者へ注がれる惜しみない愛でした。
「ちはやふる」には泣きたくなる名言が山ほど出てきます。
ONE PIECEといい勝負です。
いちいち取り上げたいくらいですが、最初にガツーンとやられたのは原田先生の「歓迎する 誰がなんと言おうと歓迎する!!」と三人の子供たちを抱きしめたシーンでした。マンガですから原田先生は泣いてみせていますが、自分の後進、自分が先人たちから引き継いできたことを、次に引き継ぐ相手を見つけられたときの喜びは、何者にも勝るのではないでしょうか。それが文化を継承してきた人間の性なのではないかと。
僕の世代は……いや、いまでも変わらないのかもしれませんが、「自由」と「個性」が最上の価値あるものであるというドグマに基づいて教育されてきました。中村勘三郎が「型のある人が型を破ることを型破りといい、型のない人が型を破ることを型無しという」と語っていましたが、僕らはもともと「日本人」「日本文化の後継者」として一度型に填められる必要があったのです。しかし戦後の左翼教育で、日本の歴史と文化は改ざんされ・歪曲され・否定された中で、僕たちは教育を受けてきました。必要な「型」を持たずに育てられた子供たちは不幸です。「自由」と「個性」は、いま考えると罪深い詐欺師の甘言だったように僕は思います。
日本社会は、日本人であることに罪悪感を抱かせ、日本人以外の文化を不必要に持ち上げ、「脱日本人」を賛美する人たちが長い間跋扈してきました。進歩的文化人という詐欺師が紡ぎ、いまもその残党たちの呪詛が続いているように思います。古い連中の言葉では「地球市民」、いまふうでは「日本を出て、世界で戦える人材」って奴でしょうか。リベラルというのは左翼の階級闘争の概念ですから、彼らは過去と歴史を認めない。いや、自分たちに都合の悪い歴史的事実を認めない。だから「地球市民」になってしまう。文化・時間軸という「縦」の関係を認めないから、彼らは過度に「横」の連帯を声高に主張するのです。
僕らは日本人の先人の系譜に連なる人間たちであることを祝福に思い、もっと誇っていいはずです。 日本文化の後継者であることは、特別なことのはずなのです。
文脈は違うのですが、登場人物のひとり真島太一は「先生 おれはA級になるより……逃げないやつになりたい」と言い切ります。僕らもわかっている人はわかっている。「おれは地球市民になるより……逃げない日本人になりたい」と。戦が起これば真っ先に逃げ、逃げずに戦った人の犠牲の上に平安が訪れたら、恥知らずに舞い戻ってくる。そんな「地球市民」にはなりたくないです。日本人であることを引き受けて、次の日本人に引き渡してゆくのが、僕らの仕事であるからね。日本人で死ねれば、それが本望です。ほんと。
というわけで、「ちはやふる」は小・中学生の課題図書にすべきである!
日本人のDNAが呼び覚まされる大傑作!
○○○のゲンなんか読ませている場合じゃないよ!
そんなことを飛行中に思ったわけです。
ちなみに、日本を狂わしているのは、恥知らずの左翼が跋扈して「日本を愛する日本人」を育ててこなかったことと、過度の社会福祉だと思いますよ。いま老人世代と国会議員がやっているのは「来年の春に田んぼに蒔くべき種籾を先食いしている」状態です。もっと子供たちに投資すべき。その子供たちが日本を強く発展させた「おこぼれ」を、福祉として収穫する方向に頭を切り換えないと。本当に国がつぶれてしまう。