日曜の朝

朝、普段より遅い時間に目を覚ました。
高層階の窓から見える日曜日の街は、普段よりものんびりしている。
サミットが終わって、街からピリピリとした緊張感が去ったからかもしれない。

隣で彼氏が微睡んでいる。
TVをつけて、原爆ドームを背にしたオバマ演説に聴き入る。
後世、歴史書に記載されるであろう瞬間を目撃している気がした。
オバマにそれを実現する力はないかもしれない。
だが、スピーチの内容は彼の誠実さだと思った。
感動でうるっとした。

明るい日差しが差し込んでくる大きなベッドで、彼氏とゴロゴロする。

シャワーを浴び、身支度を調え、カフェに行くため部屋を出る。
アイスコーヒーを飲みながら、スーツケースを引っ張ってホテルを出て行くお客を眺める。
あと2時間経ったら、彼氏は欧州に向かって出発する。
あと1時間経ったら、一足先に僕はここを出て行く。
お互いに時間を意識しながら二人で話すのは、前夜飲んだワインのことだったりする。

ワインバーで隣り合わせた客が、飛行機ファンだった。
その時彼氏が受けていた質問は、僕らがつきあい始めて2年の間に僕が根掘り葉掘り聞いた内容だった。アルコールでボーッとしながらその様子を眺めていると、「二人とも仲が良いですね」と褒められたので、軽くいちゃついてみせた。

最近、彼氏の頭を(^_^)ノ""""ヨシヨシと撫でることが増えた。
オトナになると、だんだんよしよししてくれる人がいなくなってしまう。
それは人としてさみしいことだから、僕は彼氏をよしよしすることにしてる。
なにかが伝わるような気がするのだよね。

昨夜の喧騒を思い出しながら、グラスの中の氷をクルクルと回した。
外出先の中途半端な待ち時間は、非日常な気分がして僕は好きだ。

国家の品位

塩野七生を愛読していた(過去形で良いだろう)ハンギョレ新聞の記者が、ソウルに戻ったら塩野七生の著作を残らず捨てることに決めたのだという。

その理由となったのは、オバマ大統領の広島訪問直前に、朝日新聞のインタビュー記事を読んだからだという。朝日新聞のインタビューで、塩野七生は「謝罪を求めず、無言で静かに(オバマ大統領を)迎える方が、謝罪を声高に求めるより、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです」、 「(韓国と中国は)ヨーロッパを歴訪して『日本は悪いことをしていながら謝罪もしない』と訴え、効果があると考えたのでしょうか。私には、外交感覚の救いようのない欠如にしか見えませんが」、 「日本が原爆投下への謝罪を求めないとしたことの意味は大きいのです。欧米諸国から見れば、同じアジア人なのに、と。国の品位の差を感じ取るかもしれません」、「デモや集会などはいっさいやめて、静かに大人のやり方で迎えてほしい」と指摘したことが気に入らないのだとか。

「安倍政権が広島を前面に出して「被害者コスプレ」をする姿には強い違和感を感じるが、原爆被害の当事者が米国大統領に自身の苦痛を訴え謝罪を要求する気持ちは、人の常として理解できる」。「自分の被害だけを前面に掲げる被爆者の姿を見るのも多少違和感があるが、被爆者の自然な感情の表現まで封じ込めようとする日本社会の雰囲気には、本当に息苦しさを感じる」というのが韓国人の感覚なのだそうだ。

彼らはしばしば日本人の姿勢に「息苦しさを感じる」と言い、それを「全体主義だ」と糾弾する。彼らがそう感じるのは彼らの勝手だが、僕は全体主義だとは思わない。

日本人はしばしば、感情をぐっとこらえることがある。
その時の気持ちを、例えば「ハナミズキ」ではこう表現している。

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと
止まりますように
君とすきな人が
百年続きますように
           一青窈「ハナミズキ」


個人的な感情を乗り越えて、「僕の我慢がいつか実を結ぶ」を願い、自分の後に残される子孫達の100年の幸せを祈る。

個人的な謝罪は求めない。
代わりに核兵器のない、戦争のない平和な世界を希求しようという大義を唱える。
悲しみが透けて見えるその自己犠牲は、大きな共感を生み出す。

個人の想いは民族・国家全体に引き継がれ、その記憶、その想いは長い時間を掛けて歴史を転換してゆくかもしれない。
日本人被爆者の方々の決断、その恩讐を乗り越えてゆく強さは、日本人の品位であり、美しさの一面であると、僕は信じている。

セウォル号の沈没事件の一連の騒動をみていて僕が理解したのは、朝鮮半島では国の根幹に「ノブレス・オブリージュ」が絶望的に欠落していることだった。(李承晩時代から始まってセウォル号事件、ナッツリターンに至るまで)指導者層に責任感と自己犠牲が欠落している社会だから、社会の上から下まで常に他人に「謝罪と賠償せよ!」と主張する人が溢れるのは当たり前だと思った。その想いを受け止め、国家・民族の理念や大義に高める人物がいないのだから、個人的な金銭の充足と甲乙関係の「甲」獲得に矮小化されるのは自然の成り行きかと。

朝鮮半島社会が「ノブレス・オブリージュ」を理解できない限り、日本人の流儀は理解できないだろうと思う。もっとも、彼らは理解したくもないのだろうが。

塩野七生は、「海の都の物語」のなかで、個の利益よりも集団の利益を重んじたヴェネツィア共和国を評価した。寡頭制貴族政治に対し、その貴族達のノブレス・オブリージュを讃えた。国家の品位とは、指導者達の覚悟と、国民の強さ、精神の気高さから測られるものであって、単に軍事力があるとか、GDPのサイズが大きいから品位がある、とはいわないのだ。

ノブレス・オブリージュの実践は、国家の指導層にだけ課せられたものではない。
国民一人一人の魂の気高さもまた、ノーブレス・オブリージュ実践の結果なのだ。
僕らはそれを「民度」とのんきに呼んでいるが。

記者は塩野七生からいったいなにを学んだのか?

 ひとりの切実な呼びかけ(注:自身の苦痛を訴え謝罪を要求する気持ち)を国家の品格という名で遮断しようとする社会を、私たちはどう呼ぶべきものなのか。

記者の問いかけに僕が答える。

それは必ずしも全体主義ではない。
国民国家に育っていない韓国では、国家・社会が未だに単なる個人の集合体「カオス」だからそう感じられるのかもしれない。

==============================
[コラム]塩野七生、あるいは全体主義の誘惑
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/24250.html

登録 : 2016.05.27 00:54 修正 : 2016.05.27 07:06   

 大学1年の時だったから1995年のことだと思う。先輩の下宿に訪ね、偶然一冊の本を手にした。とてもおもしろかったので帰宅途中に書店に立ち寄った。日本人作家の塩野七生氏が書いた韓国版の『ローマ人の物語』の第1巻だった。

 その後は自然に彼女のファンになった。2巻目で彼女が描写した「カンナエの戦い」についての説明、4~5巻に出てくるカエサルの描写はあまりに魅力的で何度も繰り返し読んだ。後日。『わが友マキアヴェッリ』、『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』など他の著作も読みふけった。彼女の歴史記述の方法について「英雄中心的史観」とか「全体主義的色彩がある」という批判もあったが、20代の私にはどうでも良かった。今でもソウルの自宅の本棚には、彼女の本が20冊以上(『ローマ人の物語』は15巻の大作だ!)置かれている。

 27日、バラク・オバマ大統領の広島訪問を控えて、私の心も忙しなかった。恐れを知らない事件記者だった2005年に、被爆者2世の運動を行ったキム・ヒョンニュルさん(1970~2005)が急死した。皆が驚き、原爆被害の恐ろしさに身を震わせた。安倍政権が広島を前面に出して「被害者コスプレ」をする姿には強い違和感を感じるが、原爆被害の当事者が米国大統領に自身の苦痛を訴え謝罪を要求する気持ちは、人の常として理解できる。90%以上の韓国人がオバマ大統領と安倍首相が韓国・朝鮮人の原爆被害者問題に深い関心を表明するという前提の下に、オバマ大統領の今回の訪問を歓迎していると信じる。人類が体験したこうした苦痛を否定するような人とは、一つ食卓に座りご飯を食べたいとは思わない。

 25日、朝日新聞に載った塩野氏のインタビューを読んだ。インタビューで彼女が注目したのは、被爆者の「低い声」ではなく、日本という「国家の品格」だった。学生時代に小遣いを節約して購入した多くの本に対する記憶と、インタビューのおぞましい主張が同時に私の心に迫り、“文字通り”机の上に吐き出したいと思った。

 「謝罪を求めず、無言で静かに(オバマ大統領を)迎える方が、謝罪を声高に求めるより、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです」、 「(韓国と中国は)ヨーロッパを歴訪して『日本は悪いことをしていながら謝罪もしない』と訴え、効果があると考えたのでしょうか。私には、外交感覚の救いようのない欠如にしか見えませんが」、 「日本が原爆投下への謝罪を求めないとしたことの意味は大きいのです。欧米諸国から見れば、同じアジア人なのに、と。国の品位の差を感じ取るかもしれません」、「デモや集会などはいっさいやめて、静かに大人のやり方で迎えてほしい」。

 広島には自身の被爆経験を気楽には話せない微妙な雰囲気が出来上がっている。今までオバマ大統領に謝罪を要求する明確なメッセージを出してきた人は、広島の著名な平和運動家の森滝市郎氏(1901~1994)の娘でもある、「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の森滝春子代表だけだ。自分の被害だけを前面に掲げる被爆者の姿を見るのも多少違和感があるが、被爆者の自然な感情の表現まで封じ込めようとする日本社会の雰囲気には、本当に息苦しさを感じる。朝日新聞はどうしてこうしたインタビューを現在のこの微妙な時期に載せたのだろうか。

 ソウルに戻れば塩野氏の本は残らず片づけるつもりだ。ひとりの切実な呼びかけを国家の品格という名で遮断しようとする社会を、私たちはどう呼ぶべきものなのか。

キル・ユンヒョン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-05-26 19:58
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/745634.html 訳J.S(1626字)

広島でも「謝罪と賠償を要求するnida!」ですか?

オバマ米国大統領の広島訪問・演説について2つ記事を書こうと思う。
今回のは、その前哨戦。

==============================
ニクソン:朝鮮人というのは、北も南も、感情的で衝動的な民族だ。こうした衝動性、好戦性が我々両国を困らせるような事件を引き起こさせないために、お互いに影響力を行使していくことが重要である。朝鮮半島を我々両政府の紛争の場にすることは馬鹿げており、非合理的だ。一度起きてしまったが、二度と起きないようにしないといけない。総理と私が力を合わせれば、防ぐことができると思う。

Nixon's Trip to China
http://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB106/NZ-2.pdf
==============================

これはニクソン米大統領と中国周恩来の会談を記録した、米国の公文書にある一節だ。
「朝鮮人というのは、北も南も、感情的で衝動的な民族だ」というフレーズは、朝鮮戦争当時、米国に北侵を止められた時、李承晩が泣いたことをニクソンが語ったあとに出てくる。周恩来も「はい、大統領が先ほどおっしゃったような李承晩の性格は、我々が伝え聞いているものと似ています」と返答している。

朝鮮人(僕自身はこの記事では侮蔑的な意味では使っていない。北も南もある以上、あそこを単一民族と考えれば現段階では朝鮮半島の人、「朝鮮人」と言うしかない。コリアンなんて英語表記を強要されるのはまっぴらゴメンである)は、俳優や芸能界にたくさん存在すると言われているが、確かに適職なんだろうなあと思う。舞台で感情を爆発させて、表現するという職業は、おそらく彼の国の民族は向いているのだと思う。彼らは「恨(はん)」という感情があるという。歴史学者古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」と説明しているが、隣国日本人の目には、非常に短絡的で、刹那的な人たちに映る。

韓国の掲示板で「謝罪と賠償を要求するnida!..これ日本人の間で流行語なのだそうだ」という書き込みがあった。別に流行語じゃないけどね。

オバマ大統領の広島訪問と演説が実現することが決まると、朝鮮半島からは「被害者コスプレ」だの「戦犯国のくせに」という罵詈雑言が流れてくる。そして謝罪はしない、謝罪は求めないという日米両国の公式発表の元に実現した今回のオバマ大統領の広島訪問に、「オバマ大統領は謝罪しろ!賠償せよ!」と叫ぶ朝鮮人が現れる。もはや様式としか思えない。

日本人にとって、朝鮮半島内のもめ事はどうでもいいことだ。
フェリーがひっくり返って死人が出ようと、地下鉄の火事で死人が出ようと、加湿器殺菌剤で死人が出ようとも。いずれも「韓国」という国の法的、ガバナンスの欠如から生じたものだから。
慰安婦と呼ばれている人たち、韓国人被爆者に対する援助は、本来は韓国政府が行うべき社会福祉事案であり、それが実現できていないのは韓国という国家の欠陥だと僕は思う。その欠陥を他国や他人に肩代わりさせようとするのは、酷く惨めな状況だ。

「謝罪と賠償を要求するnida!」が、日本では乞食ビジネスだと見なされ始めていることに朝鮮人は気づいた方がいい。金をたかれるところにたかってやろうという集団と見なされて軽蔑され、見下されるのは仕方ない。国家がなすべき事をせずに放置しているのは、国としてまともじゃない、そんな国を作っている国民はまともじゃないと思われるからだ。軍事独裁国家なら仕方ないかもしれないが、一応は普通選挙制が実施されているのだから。不満があったら、自分たちの力で替えてゆけばよいはずなのに。

「オバマ大統領は謝罪しろ!賠償せよ!」と叫ぶ朝鮮人に対して、米国人と日本人は冷静だった。核兵器が投下された場所がどのような惨状になるのかを知り、あまりにも強大な殺戮兵器を人類は減らしてゆかねばならないと訴えたのが、今回のオバマ演説の骨子だ。被爆者の方は本当に苦労・苦労の人生だったと拝察する。でもそれ以上に日本国内の被爆者の少なくない方々が「自分たちの受けた苦しみが、子孫にあってはならない。核兵器は廃絶しよう!」と考えていらっしゃると思う。それが広島と長崎の祈りであり、年長者たる人たちの願いなのだと僕は受け止めている。深く、深く、尊敬します。

広島、長崎の人たちはずいぶん前に次のステージに上がっているようだ。
悲しみとつらさを抱きながらも、それが本当の未来志向なのだと思う。

それに対し、朝鮮人の行動はいつも衝動的で、感傷的だ。
「オバマ大統領は謝罪しろ!賠償せよ!」が実現したとして、朝鮮人は核兵器をなくすべきだとは訴えないのだろう。個人的な恨の解放、金銭的な充足、そして永遠の「甲乙関係」が得られれば、それで満足してしまうのだろう。だから朝鮮半島では信じられない事故がなくならない。彼らは事故発生に対して衝動的に騒ぐものの、本質的な対策を考えが向かわない。「恨」は個人的な感情の発露であって、それを本質的なものへ向かわせる力にはなり得ないのではないかと僕は感じている。彼らが「恨」「恨」とパーソナルな感情に囚われている限り、近代国家や国民国家へ進歩できないのではないかと思う。

今回のオバマ大統領の広島訪問は、日米が方向を同じくして歩んでいこうというメッセージが込められていたとも感じた。特にこの写真は強いメッセージを発している。


昨年、日本の外交白書は韓国を「価値観を共有する国ではない」とした。
お互いに異質なのは構わないと思うが、日本人として相手が異質であると認識できないのは知的な欠陥だ。朝鮮人と日本人は、互いにかなり異質な文化・感性で生きていることを肝に銘じておく必要がある。

「謝罪と賠償を要求するnida!」というフレーズは、朝鮮民族の異質性を際立たせているから、日本人もよく知ることになったのだろう。朝鮮人と言えば「キムチ!」ですらなくて、「謝罪と賠償を要求するnida!」だなんて惨めすぎやしないか?

バラク・オバマ大統領の広島演説

帰宅して、バラク・オバマ大統領の広島演説を聴いた。
よく吟味された言葉で綴られた、名演説だった。

安倍首相の米国議会の演説は、よく練られたメッセージであったなあと記憶しているが、それの返礼であるような、すばらしい内容だったと思った。

核なき世界か……そういう世界の到来を望みます。

========================================
71年前、とてもよく晴れた朝、空から死が降ってきて世界は変わりました。閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。これは、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたということを意味します。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか。私たちは、恐ろしい力が、それほど遠くない過去に解き放たれたことを深く考えるため、ここにやって来ました。また死者を悼み、戦争を悼み、10万人を超える日本国民の方々と、そして何千人もの朝鮮の人々、アメリカ人の捕虜も命を落としました。

その魂が、私たちに語りかけています。もっと内側を見て、私たちが一体何者なのかを振り返るように。そして、どのように今なろうとしているのか語りかけています。

戦争において、広島だけが特別なのではありません。暴力的な紛争は古くから行われています。石や槍などが扱われました。これはただ狩りをするためだけではなく、人類を殺すためも使われてきました。どの大陸においても、どの歴史においても、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。

富をもとめ、また民族主義や宗教的な理由からも悲惨な戦争が起こってきました。帝国が台頭し、また衰退しました。人々が奴隷になり、また解放の道もたどってきました。それぞれの歴史の転換点において、罪のない多くの人たちが犠牲になりました。その犠牲となった人たちの名前は、時が経つと忘れられました。それが人類の歴史であります。

第二次世界大戦は、広島と長崎で、とても残虐な終わりを迎えました。これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出してきました。そして偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生み出してきました。しかし、同じところから戦争も出てきました。征服をしたいという思いも出てきました。古いパターンが、新しい能力によってさらに増幅されました。そこには制約が働きませんでした。

ほんの数年の間に6000万もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供達。私たちと全く変わらない人たちです。撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせられ、拘束され、またはガス室に送られて亡くなりました。

世界中には、この戦争の歴史を刻む場所が沢山あります。慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、色々なことを示しています。空っぽな収容所などが、そういうことを物語っています。

しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。私たちの考え、想像、言語、道具の製作、私たちが自然とは違うということを示す能力、そういったものが大きな破壊の力を生み出しました。

いかにして物質的な進歩が、こういったことから目をくらませるのでしょうか。どれだけ容易く私たちの暴力を、より高邁な理由のために正当化してきたでしょうか。

私たちの偉大な宗教は、愛や慈しみを説いています。しかし、それが決して人を殺す理由になってはいけません。国が台頭し、色々な犠牲が生まれます。様々な偉業が行われましたが、そういったことが人類を抑圧する理由に使われてきました。

科学によって私たちはいろいろなコミュニケーションをとります。空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しようとします。そのような科学が、効率的な殺人の道具となってしまうこともあります。

現代の社会は、私たちに真理を教えています。広島は私たちにこの真理を伝えています。技術の進歩が、人類の制度と一緒に発展しなければならないということを。科学的な革命によって色々な文明が生まれ、そして消えてゆきました。だからこそいま、私たちはここに立っているのです。

私たちは今、この広島の真ん中に立ち、原爆が落とされた時に思いを馳せています。子供たちの苦しみを思い起こします。子供たちが目にしたこと、そして声なき叫び声に耳を傾けます。私たちたちは罪のない人々が、むごい戦争によって殺されたことを記憶します。これまでの戦争、そしてこれからの戦争の犠牲者に思いを馳せます。

言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものではありません。しかし私たちには共有の責任があります。私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。そして、尋ねるのです。我々は、一体これから何を変えなければならないのか。そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたらいいのかを自問しなくてはなりません。

いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでしょう。しかし「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決して消えるものではありません。その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなりません。私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでしょう。そして、私たちに変化を促すものとなります。

あの運命の日以来、私たちは希望を与える選択をしてきました。

アメリカ合衆国そして日本は、同盟を作っただけではなく友情も育んできました。欧州では連合(EU)ができました。国々は、商業や民主主義で結ばれています。

国、または国民が解放を求めています。そして戦争を避けるための様々な制度や条約もできました。

制約をかけ、交代させ、ひいては核兵器を廃絶へと導くためのものであります。それにもかかわらず、世界中で目にする国家間の攻撃的な行動、テロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、「私たちのやることに終わりはないのだ」ということを示しています。

私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶することはできないかもしれません。私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければならないからです。しかし我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の論理」から逃れる勇気を持つべきです。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。この未来こそ、核戦争の夜明けではないということを、そして私たちの道義的な目覚めであることを、広島と長崎が教えてくれたのです。

                  アメリカ合衆国第44代大統領
                  バラク・フセイン・オバマ2世

マシライスがつらすぎる…… (T-T)

同僚に誘われて、立川マシマシという店で、マシライスというものを食べてみた。
店の外には「中毒性がある」というネットニュースの記事が貼ってある。
御飯の量は通常で、肉マシを食べてみた。

脂、辛み、肉、炭水化物……すべてが中毒的だった。

そして僕ら三人は午後仕事にならず。

僕は胸焼けで意識が遠のき、仕事中半分寝ていた。
同僚Aはトイレに通いっぱなし。
同僚Bはビオフェルミンをガッツリ飲んで、その後沈没。

つらすぎた……。
リピートはムリっす。


BL漫画レビュー:倫敦巴里子『隣のスパダリくん』

昭和のホモ漫画っぽい匂いがする倫敦巴里子の新作。

彼女になじられ婚約破棄された不運のサラリーマン・佐藤。
どん底に落ち込んだとき、甘い言葉とおいしい食事を差し出してきたのは、隣の部屋に住むイケメンモデルの佐藤でー!?
同じ名前でスペック真逆★な高校生モデル×三十路の地味リーマンの年の差&格差ラブをはじめ、ヤクザ×高校生の恋の駆け引き、ある男の妄執に囚われる大学生など、エロスからホラーまで珠玉の読み切り満載!!

完璧ダーリンな年下男子にココロもカラダも餌付けされちゃった!?

倫敦巴里子の絵柄はわりと好きだ。
アニメっぽい顔立ちは昭和の匂いが漂ってくる。
BLというより、10年か20年くらい前に、Badiあたりでほんわかハッピーゲイライフ漫画でも連載していたら、かなり流行っただろうなあと思う。細マッチョな身体にやや童顔の顔が乗っかっていて、悪くないと思う。

タイトルにもなった「隣のスパダリくん」の佐藤×佐藤。
婚約を破棄された三十路のサラリーマン佐藤と、モデルで現役高校生佐藤は、東京のとあるマンションでお隣さん同士。サラリーマンを餌付けしている動機が「仕事も学校も休みがちだから友だちなかなか出来なくてさ」という緩さ。




「どうもお前といると愚痴っぽいな」
「なんか淋しいなあ。僕は少なくとも佐藤さんといるのが楽しいし幸せなのに」

んー、なんだろう。
実はこの話は、あまり刺さってこないんだ。
それは上のセリフが示しているように、高校生佐藤の方がリーマン佐藤を好きなのだが、切っ掛けも、好きになったポイントも、なにも明らかになっていなくて、ただ「楽しいし、幸せ」と言っているのみ。ボロボロのサラリーマンに同情した高校生が、流されて身体を重ねてしまった……みたいな行きずり風でもなく。高校生佐藤はわりと将来のビジョンを持って暮らしているし、派手な人生を送りたいわけじゃないリーマン佐藤は、淡々とリーマン生活を送っているしで、もうちょっと馴れ初めとかないと……物語が滑ってしまっている。

リーマン佐藤は別れた女の婚約指輪を売って、高校生と高級すき焼きを食う。別れた彼女とは、年齢を含めたある種の妥協の結婚にも幸せはあると想像していたけれど、醒めてしまったあとは、もう気持ちは戻らない。食欲を満たしたあと、「佐藤さんが僕を幸せにしてくれる。だから僕も佐藤さんを幸せにしてあげる……僕に恋して」と年若い高校生に口説かれる。そしてベッドに中で迎える土曜の朝。

んー、佐藤×佐藤の間に動機とエピソードがなさ過ぎて、突っ込みようがない。
消化不良すぎて、今夜は眠れないかも。

1.絵柄
細~マッチョなボディに童顔が乗っていて、僕は好きだね。

2.ストーリー
佐藤×佐藤は設定が適当なのか、ヤクザ×高校生は人間関係をもっと整理した方が頭に入ってくるのになと思った。21世紀になってから恋愛至上主義、ほとんどがハッピーエンドというご時世で、バッドエンドの大学生モノを発表した心意気は買いたい。

3.エロ度
「逢瀬も二度目ともなれば……だいぶ後慣れてきたな」ってセリフくらいかな。エロイ身体を描けるのだから、もっとサービスしても良いと思うが。倫敦巴里子の画風だと、肌も見せないプラトニックか、ほとんど服を着ることなしのビッチか、どっちかに思い切り振った方がおもしろい作品が描けるんじゃないか。

4.まとめ
消化不良、ひたすらに。

……ピチピチの高校生と三十路の地味リーマン。
以前だったら高校生ネタとかごちそうだったのに、毎日何十人もの男子高校生とすれ違っているのに、最近の僕自身が男子高校生に興味がわかなくなってしまっている。せっかくの高校生ネタだったのに、時期が悪かったのかもしれない。

絵柄 :★★★☆☆
ストーリー:★☆☆☆☆
エロ度 :★★☆☆☆
(あくまで個人的主観に基づく★の数です)

Mac OSXでアプリを終了させる

Mac OS Xで知らなかったこと。

Windows者だった僕は、ずーっと長い間、「×」アイコンをクリックしてもアプリケーションが終了しないMac OSXが不満だった。だって不便じゃない。

で、昨日「command」+Qでアプリが終了することを知ったよ。

一つ大人になった気分だ。

iMac(21.5-inch,Mid2011)へWindows10をインストールするのに、盛大にトラブる

MicrosoftがWindows10をしつこく薦めるから、Bootcamp上で動かしていたWindows7をアップデートしたら盛大にトラブった件のメモ。


※まず最初に言っておく。
iMac(21.5-inch,Mid 2011)でのWindows10利用は、Appleはサポートしていないという事実。天才酒場に泣きついてもアテにならないということだな。

Appleがサポートする、Windows10インストール可能マシン一覧は、ここをチェックしておこう。(https://support.apple.com/ja-jp/HT204990)


そんなことも知らずに作業開始して、結果としては動作したという報告。

前回のブログ記事(http://blackarmor.blogspot.jp/2016/05/bootcamp.html)で、パーティションを切り直そうかと思案していたんだけど、めんどくさくなって現行のパーティションサイズ(170Gほど)でWindows7→10へアップデートしようとした。

「田」アイコンをクリックすると、診断がはじまる。
Bluetoothが対応していないという結果が出る。

ネット上では、Windows10インストール後、BootCampサポートソフトウェアをインストールすることで対応可能と報告されている。だけど……よく考えろよ。iMacはBluetooth接続のキーボードとマウスを使っている環境。MacbookならとりあえずBluetoothが動かなくても何とかなろうが、Bluetoothキーボードとマウスの環境だと、インストール途中にユーザ名とか入力が必要なWindows10を入れるのはムリじゃね? って気づいた。
情報を入力しなきゃならない状況でキーボードとマウスがないってのは……ダルマが崖を登れと言われるくらいに難しいんじゃないか?? (ソフトウェアキーボードが使えたとしても、マウスは必要だよな)

結論から言うと、僕はWindows10のインストールを終え、Bluetoothドライバー問題が片付くまでは、WindowsPCのUSBキーボードとUSBマウスで作業を行った。

で、次に現れた問題。
「田」のダウンロードが全然進まない。
WindowsPCでも、コイツは使い物にならないプログラムだった。

結局、データのバックアップを取り、パーティションを切り直し、クリーンインストールすることにした。

1.事前作業
1)Windows10のインストールディスクを作る。
ネットの説明では、BootCampで「Windows7またはそれ以降のバージョンのインストールディスクを作成」という項目をチェックし……とあるが、僕が使用しているEl Capitanでは、そもそもそういう項目がなかった。
そこで、マイクロソフトのサイト(https://www.microsoft.com/ja-jp/software-download/windows10) で配っているWindows10のメディアクリエーションツールを使い、[他の PC 用にインストール メディアを作る]を選択して、isoファイルをダウンロードした。
isoファイルをImgBurnを使って、DVD-Rに焼いた。

2)BootCamp Support Softwareをダウンロードし、解凍する。
macoscomponents (https://support.apple.com/ja_JP/downloads/macoscomponents)から、BootCamp Support Software 5.1.5621をダウンロードする。最新バージョンを入れれば良いという問題ではないので、要注意だ。詳しいことはこちら(https://support.apple.com/kb/DL1720?locale=ja_JP&viewlocale=ja_JP)を参照のこと。
ダウンロードが終わったらzipファイルを解凍する。解凍したファイルをUSBメモリにコピーしておく。

3)Mac OS XのBootCamp アシスタントを立ち上げ、インストール作業開始。
「Windows7またはそれ以降のバージョンをインストール」にチェックを入れ、「続ける」をクリックする。光学ドライブに、作成しておいたWindows10のisoディスクを挿入しておく。内蔵HDDのパーティションサイズの変更があり、そのあとはWindows10のインストール画面が立ち上がる。

※Windows10のインストール先は、bootcampという名前のついたパーティション(大小2つのパーティションがあるが、サイズの大きい方)。そのままインストールしようとするとエラーになるので、フォーマットが必要。

4)Window10が立ち上がったあと、BootCampサポートソフトをインストールする
あらかじめ作っておいたUSBメモリにアクセスし、「BootCamp」フォルダ内のsetup.exeをダブルクリックし、各種ドライバなどをインストールする。

※僕のiMacでは、この作業の途中「RealTek」でフリーズが発生した。
タスクマネージャーからsetup.exeを止めた場合、インストールが完了しなかった。
さらなる問題は、途中でフリーズしたため、その後に続く「BootCampパネル」がインストールされず、Mac OS Xに戻れなくなって超焦った。
地獄でしょ?

対処方法はドライバーフォルダ内にある「RealTeK」を退避させ、インストールを完了させること。僕のiMacでは「RealTek」関連のファイルは最終的にインストールされていないと思われる。
インストールが完了すると、BootCampパネル(Windows10ではステータスアイコン内にしか現れない)が現れるので、Mac OS Xに戻ったり、キーボードの設定(Fnキー)などができるようになる。

BootCampサポートソフトをインストールした時点で、Bluetoothドライバがインストールされるので、Bluetoothキーボードやマウスが利用可能になる。Bluetoothが機能しないときは、BootCampサポートソフトのsetup.exeを起動し、「回復(復旧かもしれん)」を選択して各種ドライバーを再インストールする。僕の場合はその過程で、最適なグラフィックドライバ、ディスプレイドライバ、サウンドドライバがインストールされた。

5)その他やったこと
・Windows10で「英数」「かな」キーを機能させたい
→MS IMEメニューから「Microsoft IMEの設定」を選択し、「詳細設定」をクリック。編集操作内の「キー設定」を変更する。「無変換」の入力/変換「かな切替」を選択し、「変更」をクリック。「無変換」の入力/変換を「IME-オフ」に切り替える。続けて「ひながな」「ひらがな」の入力/変換「ひらがなキー」を選択し、「変更」をクリック。「ひらがな」の入力/変換を「IME-オン」に切り替える。

・Windows10にアップグレードしたら、光学ドライブを認識しない
これはBootCampではなくて、Windows10の問題らしい。
「コマンドプロンプト」を右クリックして「管理者として実行」を選択して立ち上げる。次に、下記のコマンドを打ち込んで実行する。レジストリを弄るので、Windows10が立ち上がらなくなる場合もあるので、実行する場合は自己責任で。

reg.exe add "HKLM\System\CurrentControlSet\Services\atapi\Controller0" /f /v EnumDevice1 /t REG_DWORD /d 0x00000001

僕のiMacでは、上記コマンドで光学ドライブが認識されるようになった。

ここまでくるのに週末の半分を費やすハメになったよ。
いまは快適にWindows10が動いている。

こんなめんどくさいことは二度とやりたくないな。

bootcampのパーティションを切り直そ

Windows10への無償バージョンアップ期限が近づいていますね。

僕の周りではWindows7でできる限り粘ると言っている人と、とっととWindows10へ行くと言っている人とが半々かな。
付き合いのあるグループ会社の情シスからは「Windows10へのアップグレードが強制されて困ってます!」と悲鳴が入るわで、日々大変。
WSUSでコントロールすれば良いのだろうが、規模の小さな会社は運用しきれないだろうし。

で、自分の事というと、父親のiMacがBootcamp仕様になっていて、こいつはWindows10に上げるかなあと考えてる。El CapitanだとWindows7のインストールはサポート外になってしまっているんだよね。となると追随しようかと。

ところが……。
Bootcampのディスク容量が足りなくなってきていて、パーティションの切り直しをやらなきゃならなくなって。
Wincloneでバックアップを取る手もあるけれど、それよりも前に、家族写真をiMacだけに保管という現状が怖くなってきた。

というわけで、ただいまバックアップ用の500Gハードディスクを初期化中。
写真とメールのバックアップを取ってから、Windows10をダウンロード、クリーンインストールして、アクティベーション……はぁ……先は長いな。

ソニー復活の鍵じゃない?

「オレの愛したソニー プレステ生みの親・丸山茂雄が語る迷走の裏側」がすべて公開された。
今回もめちゃめちゃおもしろかった。

ソニーの中の人、別のカンパニーの人からは異論が出るだろうが、「ソニーの本質は高級なおもちゃ会社」という核心を指摘されて、目が覚めた人が少なからずいたんじゃないかな。ソニーとは、手に取った人がどきどき、わくわくするおもちゃをつくるカンパニーと再定義できたら、またやり直せると思うよ。

この核心を上手くすくい上げることができたら、ソニーの大復活劇があるかもね。

あと、パナソニックとソニー二社のビジネスドメインが、創業者の生い立ちが影響しているのではないかという指摘はおもしろかった。創業者のひとり、盛田さんの趣味の会社だったのね。

付喪神とAIBO

雨。20.5℃/19.1℃/100%

いま、日経ビジネスオンラインで連載されている「オレの愛したソニー プレステ生みの親・丸山茂雄が語る迷走の裏側」がめっぽうおもしろい。書かれていることはソニー部外者も薄々知っていたことではあるものの、ソニーの中枢に近いところにいた丸山氏の口から語られると、生々しい、リアリティが段違いだ。

圧巻は「ソニーの使命は大賀時代で終わっていた」という前置きのあと、「ソニーが輝きを失った本当の理由は、別にもあると俺は思う。それは会社や事業には寿命があるということだよ」という、社内の誰もが分かっていても、それを受け止めるのは非常に困難な現実を語っているところ。

高級な大人のおもちゃを売ってきたというソニーは、現在だと高級なトースターを売り出しているBALMUDAみたいなポジションだったのだろう。めちゃくちゃハイテクじゃないのだけど、五感に訴えてくる楽しさを持った製品をリリースする会社。その製品を持っていることで、人生が少し楽しくなる、そんな高級なおもちゃ。いまのソニーはそういう五感に訴えてくる楽しさがない。

同じことはジョブス亡き後のAppleにも言えることで、現在のAppleはつまらない。当たり前に良く出来た製品をリリースするが、良い意味での偏り、偏執的なこだわりが失われている。Appleも支那・朝鮮が安売りしているコモディティに埋没する寸前のようだ。

で、丸山氏がソニーグループから離れるきっかけとなったのが「AIBOからの撤退」だったというのが、なかなか興味深かった。

たまたま「人工知能は人間を超えるか」(松尾 豊 著)という本を読んでいて、あと少しで読了となるのだけれど、いろいろと思うことが多かったんだ。

欧米ではDeep Learningの先にシンギュラリティが起こり、世界は映画ターミネーターに登場する「Skynet」のようなものに支配されるディストピアが想像されているようだ。松尾氏はそんなことはないんじゃないか?との立場。

僕自身は、日本人が開発する人工知能は、Skynetのようなものではないような気がしている。AIBOではないけれど、昔から日本には長い年月を経た道具などに神や精霊などが宿るという「付喪神」というおとぎ話があった。モノが知能を持つけれど、それは必ずしも人間と敵対せず、共存してゆけるという考え方だ。Skynetに比べれば遙かに平和だ。

AIBOはそういう先駆けで、もったいないなぁと思っていた。

これは付喪神の一種で「五徳猫」と言うのだそうだ。


ひさしぶりの緊急地震速報だった

iPhoneから、ひさしぶりにあの禍々しい音が聞こえてきたよ。

震度4位で済んだけど、ネットじゃ大地震の予言が飛び交っているしで、どうなるやら。

金子半之助に行ったりとか

晴れ。23.7℃/12.5℃/44%

五月らしい爽やかな1日だった。

今週末は来日中の彼氏と一緒に過ごした。
初日は、仕事上がりの彼氏と真っ昼間のサイゼリヤでワインを2本空けて、日の高いうちから撃沈。
彼氏にしてみれば徹夜明けに酒を食らったわけで、そりゃ潰れますわ。

今日日曜日は、二人とも7時前には目を覚ました。
ベッドの中で見逃していた「不機嫌な果実」を二人で眺め、「私だけが損している気がする」とか言ってるオンナはダメだろ~と苦笑しながら視聴を終え、外出。

上野に出て、以前から行ってみたかった旧岩崎邸を訪問。
正面はシンガポールの金持ちの家?という感じ。




ジョサイア・コンドル設計の豪華な内装の洋館と、シンプルな和館を見て回る。
個人的には三田にある三井家の旧宅に入ったことがあるので、あちらの方が広いかなあと感じた。旧岩崎邸の面積は1/3に削られているというのだから、当時はとんでもなく広かったのだろう。こういう洋館を巡るのはなかなか楽しい。

谷中商店街へ移動。
TVではよく見るのだけれど、初訪問。
場所は微妙な商店街が観光客でごった返しているのは、やっぱりTVの影響なんだろう。



歩き疲れて、パフェとアイスティで一休み。
ドアの開け放たれた店内を風が通って、心地良い。
彼氏ととりとめもない話で盛り上がる。
彼氏とのデートは、些細なことでも楽しい記憶ばかり積み重なってゆく。

そのあと日本橋へ移動して、天丼 金子半之助で早めの晩ご飯。
このボリュームで950円は激安。
普通の天ぷら屋だったら1500円位は取るんじゃないだろうか。
しかも、美味かった。


チャンスがあったら再訪したいけれど、あの行列を考えたらちょっと無理かな。

東京駅までブラブラ歩いて、彼氏とはそこで別れた。
たまには東京散歩もいいと思う。

BloggerでAdsenseが承認されないわけ

Adsenseの規約に違反しているわけでもないのに、Googleが承認してくれないのは、ブログを開設してから6ヶ月が経っていないからという衝撃のルールがあるらしい。

昔はそんなに時間がかからなかったような気がするが、問題ブログが増えたせいなのかもな。。。

猫絵十兵衛御伽草紙と「おかげ犬」

GW中盤の松崎でのできごと。

お昼御飯を「民芸茶房」という食堂で摂った。
刺身と小アジの干物をセットにしたランチだった。
その食堂は漁港の入り口にあって、店の隣では干物を製造販売している。
その時の僕は、全身生臭い臭いをまとっていたのかもしれない。

まつざき荘へ戻る道に建ち並んだ家の玄関に、姿勢良く座って外を眺めている白い猫がいた。
道の反対側にしゃがんで声を掛けてみると、のっそり寄ってきて、手のひらの匂いをクンクンとかぎ、頭をグリグリ押しつけて戻っていった。
普段猫に声を掛けても100%無視されているので、やけにうれしくなった。
猫が遊んでくれたのは、学生時代にテキサスに滞在していた時以来だったから。

帰宅して、ほったらかしにしていた「猫絵十兵衛 御伽草紙」を手に取ってみた。
いろいろとやばいわ。
1巻に1話は号泣させられるわぁ~。

江戸時代+猫話だから、好きな人にはたまらん設定なんだろうと思う。
僕はかねがね「逝きし世の面影」を大絶賛しているから、一気にこの作品が好きになった。江戸時代は、教科書が教えるよりも、たぶん、ずっと良い時代だったのだろう。


「猫絵十兵衛 御伽草紙」の第10巻に「お伊勢猫の巻」という話がある。

江戸で蕎麦屋を営んでいるオヤジは、暑さにやられて寝込んでしまっている。
オヤジは横になりながら、飼い猫のチコに伊勢音頭を唄って聴かせる。
「伊勢に行きたい~伊勢ェ路みたい~せめてナ~~、、もう一度……」

ある晩、オヤジの病状が急変する。
苦しんでいるオヤジの姿を見たチコは家を飛び出し、伊勢神宮代参の旅に出る。

江戸後期はお伊勢参りが全国的に流行していた時代。
チコはお伊勢参りの巡礼者たちに付いて西へ向かう。
賽銭の袋と御幣を首に結んでもらうと、伊勢参り猫のできあがり。


宿屋に着けば、御飯と水を出してもらえる。
宿屋は首に結んだ路銀から宿代を取る。

途中、雲助の籠屋に路銀を取られそうになるも、「伊勢参りの奴に手ェ出すのは気分が悪ィや」と助けられ、重たい路銀(たぶん銅銭)を銀貨に両替してもらう。



そして伊勢神宮にたどり着く。
四つ足は不浄のものとされていたが、参拝を許されて、お札をいただく。

たくさんの人の善意に支えられて、チコは江戸へ帰還する。




こんな都合のいい話があるものなんか??
江戸時代の人は、みんな優しい人たちばかりだったのか?

いや……そういえば、伊勢のおはらい町に犬がいたっけ。

あらためてこの「おかげ犬」について調べてみたら、猫絵十兵衛のエピソードがおかげ犬から取られていることが分かって驚愕した。

福島県須賀川の旧家、市原家の8代目を継いだ市原綱稠に飼われていた白毛の秋田犬シロは、人間の言葉がなんでもわかって、買い物をしたり用足しをしたりする利口な犬で、町中の評判であった。

市原家では、毎年伊勢の皇太神宮の春のお祭りには、主人が欠かさず参拝するならわしにしていた。ところが、ある年主人が病気のために行けなくなってしまい、みんなで相談して、このシロを代わりにお参りさせることにした。

そこで、「この犬は、主人が病気のため、代わって伊勢の皇太神宮にお参りさせるもので、途中水や食べ物を欲しがって立ち寄ったときは、食べ物を与えて相当の代金を取り、その金高を帳面に書いてもらい、また、この犬は人間の言葉がわかるので、「伊勢までの道順をよく教えてください」という帳面を入れた頭陀袋を首にかけ、人間にものを頼むようにこまごまと言い聞かせて、家族が町外れまで見送って出発させた。

市原家では朝晩神棚に灯明をあげて、無事に帰れるよう祈った。
それからまるまる2ヶ月目の夕方、シロが無事帰ってきた。
頭陀袋の中には、皇太神宮のお札と、宮司の奉納金の受け取りや、途中での食べ物の代金を差し引いた帳面も入っていた。

市原家ではみんな涙を流して喜んだ。

また、「主人に代わってお伊勢参りをした忠犬」ということで町の大評判となって、みんなにかわいがられたが、それから3年後に病気で死んでしまったという。


おかげ犬は「殊勝な犬である」と喜捨を授かることもあって、300文をつけて送り出した犬が、3000文を持って帰還した例もあるのだとか。


去年のこの日、僕は一人で伊勢神宮に向かっていたことを思い出し、これもなにかの縁だと思った。

GW中盤は松崎で過ごす

GW中盤は、西伊豆の松崎で過ごした。
「世界の中心で愛をさけぶ」や「とんび」のロケ地だった松崎。
この二作品のロケ地のほかは、なまこ壁の家が残る静かな漁師町だ。

お土産屋もほとんどない静かな田舎町と、きれいな砂浜。
なにもないのが好もしくて、年に一度は海を眺めに滞在したくなる町だ。

今回も「まつざき荘」に連泊した。
海の見える、心地良い部屋だった。
砂浜に出て、打ち寄せる波を飽かずに眺める。
夜は、布団の中で波の音を聴いた。

日が暮れたあと、強い雨が降った。
駿河湾を分厚い雲が覆い、明け方、窓を叩く雨音で目を覚ました。
風が唸り、波が岸壁を洗う。
そんな荒天が日が昇るにつれて収まり、そのあとは目が覚めるような碧い空が広がった。

松崎には甥姪を引き連れていった。
海に足を浸し、押し寄せる波をぴょんぴょんと飛び越える幼児達を眺めていた。
なんの捻りもない遊びだけれど、深く深く記憶に残る時間だった。

松崎はとてもいい町だ。
今度は一人でもいいから、静かに数日過ごしてみたいと思う。





BL漫画レビュー:座裏屋蘭丸『VOID』

いわく付きのBLマンガをご紹介。

刷り込まれた記憶を、愛は、超えることが出来るのか--

マキの元にやってきたヒューマノイドのアラタは、容姿と記憶の一部をコピーしたハイスペックな【愛玩タイプ】。
しかも最初にみた人間を好きになり依存する【すりこみ機能付き】。
刷り込み機能により愛情を示すアラタを、マキは嬲るように抱く。
「ちゃんと愛して欲しい」とアラタは涙目で訴えるが、マキの心には決して融けない「永久凍土」があり……。


僕は、この手のロボット、アンドロイド、AIものが大好き。
正統なSF小説はもとより、BLものでこの手のテーマがあるならば出来るだけ読みたい。
すでに取り上げた山中ヒコ「500年の営み」は秀作だったし、富士山ひょうた「わりとよくある男子校的恋愛事情」に収録されている「オートマチック・スマイル」は佳作だと記憶している。

「VOID」のヒューマノイド アラタはちょっと特殊で、デザインされた人工生命体。ロボットではなく、人と同じ寿命を持つ有機体という設定。




人間と同じく食事を摂る。味も分かる。
喜怒哀楽があって、涙も流す。

しかも実在する個人の遺伝子や記憶を植え込まれた個体もあって、なんというか、クローン人間とかそっち方面の設定に近いのかなあ。

アラタにも人間のデータが使われていて、オリジナルの名前は「レン アマミヤ」。
マキの心に永久凍土を作った故人のデータだった。

自分を捨てた……というか踏み台にしたレンに意趣返しするかのように、マキはアラタの身体を嬲る。だが「刷り込み機能」を持つアラタは、「やだっ!そうじゃなくて……ちゃんと…ちゃんと…愛して…ほし…」と愛を乞うのだった。

「VOID」は、C言語を操る人間には int main(void) でおなじみのフレーズだ。
「空の」とか「無効にする」といった意味だ。

オリジナルの「レン アマミヤ」の記憶を持ち、「刷り込み機能」でマキを愛する対象と刷り込まれたアラタをVoidしたあと、アラタと関係を再構築できるのだろうか。

テーマは非常にシンプルだ。



ところで。
座裏屋蘭丸は、同人時代から美麗で、ハードな作品をリリースする作家として、けっこう有名だった。

今回、雑誌連載のあとに「完全受注生産限定18禁コミックス」がリリースされた。
「官能描写の名手が創る作品世界を、完全受注生産の18禁コミックスで再現」と銘打って、密かに世の中に送り出されたバージョンなのだ。いまのところ再販はしない模様で、オークションではすでに定価の3倍以上の値段で取引されている。あまりに好評だったので、修正が施されたバージョンが電子書籍で販売されている。

なんでこんなことになったのかといえば、座裏屋蘭丸作品が2作続けて「東京都青少年の健全な育成に関する条例」に引っかかったことが影響しているようだ。まあ座裏屋作品が官能的すぎるとはいえ、すでに日本は検閲機関が創作物を検閲して、あれこれ指図している現実がある。

BLがポルノなのか、あるいは非ポルノなのかは、BLの成り立ちからして線引きは難しい。BLからまったく性的要素を抜くと、少年ジャンプとか、ただの少女マンガになる。それをBLと呼べるのか?そんなにご大層なジャンルだとは思わないが、検閲によって創作の1ジャンルの存続が揺らいでいるのだとしたら、それは危機感を持った方が良いのかもしれない。
そもそもなにをもって「健全な育成」に引っかかるのかはよく理解しがたい。過去、バチカンはミケランジェロが描いた青年の股間に葉っぱの文様を上書きした。芸術作品なのに。どんな時代も検閲機関のバカバカしい努力は、創造性へのプラスには決してならないと思うのだよな。「Cool Japan」ならぬ「Hot Japan」と銘打って、18禁・モザイク修正なしの「オトナ特区」を立ち上げたら、世界から好事家達を引き寄せることが出来るかもしれないね。

「VOID」の18禁版というか、完全バージョンは、今後コミケなどの同人誌扱いで発売されることがあるかもしれないが、当分は幻の逸品になるようだ。

1.絵柄
官能的で、エロス匂い立つ座裏屋蘭丸の真骨頂。
かわいらしい絵柄?それどこの世界の話よ?くらいに官能的。
Guilt|Pleasureが好きな人ははまるだろう。

2.ストーリー
ロボット、アンドロイド、AI系が好きな人ははまるだろう。
だけど、あまりSFっぽくはない。
御飯食べたり、デートしたり、植木に水をやったり……。
ハッピーエンドなので、安心して読み進められる。

3.エロ度
エロイよ、だって座裏屋蘭丸作品でしょ?
エロくなかったら座裏屋蘭丸じゃないし。

4.まとめ
「東京都青少年の健全な育成に関する条例」のために作家に萎縮してもらいたくないと思いつつ、座裏屋蘭丸がろくでなし子化しても苦労しそうで気の毒だし……いや、がんばってください。それから限定本は早めの告知をよろしくです。

絵柄 :★★★★★
ストーリー:★★★☆☆
エロ度 :★★★★★
(あくまで個人的主観に基づく★の数です)

GW前半 終~了~

新潟県はよく雨が降っていた。
天神平に寄ろうかとトレッキングシューズを持ってきたけれど、降雪10cmということで断念したくらい。
関越トンネルを抜けて関東へ戻ってくると、五月らしい気候が待ち構えていてホッとしたね。

途中で関越道を降りて、りんごを買った。
いま、真っ白い林檎の花が咲いている時期だ。

僕は槇原敬之の「林檎の花」が好きでさ。
青森の空の下で林檎の花を見た事はないけれど、いつも青森のことは想ってる。

大好きな「清明」の予約はもう少し後からの方が良いらしい。
5kg買いたいけれど、ボケない間に食べきれる量は、せいぜい3kgなんだよね。



五月の空の青と萌える緑の間に
薄紅色の小さな林檎の花が咲いている
君は彼と彼女が自然に隣り合うように
ふざけるふりして携帯で写真を撮っていた
君はあの子のことが本当は好きなんだろう
自分の事よりもずっと大事に思えるほど
「みんな入れ」と僕が撮った写真の中には
あの子の隣じゃなくても本当に
嬉しそうな笑顔の君が写っていた

五月の空の青と萌える緑の間に
薄紅色の小さな林檎の花が咲いている
恋と愛はまるで違う 林檎とその花みたいに
相手を想う気持ちだけが恋を愛に育てる
君はあの子のことが本当に好きなんだろう
自分の事よりもずっと大事に思えるほど

誰かを思う気持ちで僕らは生きてるんだ
あの子の隣じゃなくても本当に嬉しそうな君の頬は
林檎の花と同じ薄紅色
誰かを想う気持ちでいつか愛が実る

槇原敬之「林檎の花」