おっさんが社会的産廃にならないために。

僕は小田嶋隆氏が嫌いだ。
こんなところで面識のないおっさんから「あんたを嫌いだ」と言われて、小田嶋隆氏はたぶん気を悪くすることだろう。
だが、リベラル一派に属する彼の時事論評を読んでいると、リベラルの遵法意識の希薄さ、自己責任より他者責任を叫び、ここ一番踏ん張らなきゃならない場面で「オレ、ここから逃げるわ」という連帯感のなさに、めまいがしそうになる。

だが、時事問題から離れた小田嶋隆氏のコラムは、たまーにキラリと光るものであるので、斜め読みくらいにチェックはしている。

今回の「入院した中年男性がおしなべて不機嫌な理由」は、先月僕も入院体験したこともあって、全面的に賛成。

自分がゲイという、ノンケ様たちからはズレた感覚で生活していることもあって、中高年男性の粗暴さ、横柄さにはほとほとうんざりしている。若かった頃は、あんなに素直で、よく気がついて、愛嬌のあった人たちが、なぜ無惨な状態になってしまうのか不思議で仕方なかった。


===以下、日経ビジネスオンラインから引用===
 前回の入院の時も思ったのだが、年配者の多い同僚患者を見ていると、病院の日常に適応して入院生活を楽しんでいるように見えるおばあさんたちに比べて、男性のご老人は、おしなべて不機嫌な様子をしているのだ。

 互いに病状を気遣い、朝に晩に声を掛け合いながら、機嫌良く病院の明け暮れをやり過ごしているおばあさんたちに比べると、爺さんたちは、どうかすると自分で自分の症状を悪化させているようにさえ見える。

〜中略〜

私がここ数年来様々な場所で感じているのは、その「意に添わぬ立場に置かれた」時に、多くの男がまるで機能しない人間になってしまうという、そのことだ。

〜中略〜

 日本のおっさんは、職場に置けばきちんと機能する。その意味では、規格外の不良品ではない。事実、彼らの社会である「会社」では、彼は、立派な社会人として通用している。

 ただ、病院は、企業社会とは別の原理で動いている。だから、そこでは、職場のプロトコルが通用しない。となると、おっさんは、何もできない。

 おそらく、病院に放り込まれた爺さんや、駅の雑踏を一人歩く通行人になりかわったおっさんが、まともな態度をとれないのは、彼らが本来あるべき「役割」の外に放逐されている独行者だからなのだ。


 企業人ないしは組織の人間としての社会性は、平場の世間では通用しないどころか、邪魔になる。
 だからこそ、街場のおっさんは、歩く凶器と化すのだ。

 とすれば、役職を剥がされ、立場を喪失し、外骨格としての会社の威儀を離れ、一人の番号付きの入院患者になりかわった時に、そのおっさんなり爺さんなりが、どうふるまって良いのやらわからず、ただただ不機嫌に黙り込むのは、これは、理の当然というのか、人間性の必然ではないか。

 シンデレラがガラスの靴を脱いだ時みたいに、おっさんの魔法は、背広を脱ぐだけで、あとかたもなく解けてしまう。

 そう思って振り返ってみれば、部下が話を聞いてくれていたのも、得意先の若いヤツが人懐っこい笑顔で話しかけてくるのも、生身のおっさん自身に対してではなかったのかもしれない。若い連中のリスペクトが、おっさんの肩書や立場、つまりは背広への義理立てに過ぎなかったのだとしたら、その背広を脱がされて、入院患者用の業者レンタルの浴衣を着せられたオヤジほどみじめな存在はない。なんとなれば、彼は彼がそれまでそうであったすべてのものの抜け殻だからだ。

 もう少し噛み砕いた言い方をするなら、上下関係と利害関係と取引関係と支配・被支配関係で出来上がった垂直的、ピラミッド的な企業社会の中で身につけたおっさんの社会性は、病院や、町内会や、マンションの管理組合や、駅の雑踏や、コンサートの打ち上げのような場所で期待される、水平的で親和的な社会性とは相容れないということだ。

===引用、ここまで===

僕が入院していた5日間、廊下で怒鳴っていたのは中高年男性ばかりだった。
僕の症状はS状結腸炎で、比較的早く回復した。
暇で、体力の回復も早かったので、点滴スタンドを引っ張りながら入院フロアをウロウロしていた。
目にすること、何もかもが興味深かったのだ。

面会ラウンジでTVを見たり、廊下のベンチに腰かけて外を眺めていると、婆ちゃんたちが話しかけてくる。
「あたしのろまんすを聞きたいかい?」とばかり、長い長い昔話を繰り出してくるんだが、僕は嫌いじゃなかった。話が途切れたら、共に窓の外の山々を眺めて、また少ししゃべり、話し疲れたら病室へ戻る、という生活だった(僕は点滴ポンプのバッテリーが残り少なくなると病室へ戻っていた)。
それに比べ、中高年の男性は、押し黙って腰かけているか、ナースコールで呼びつけた看護師に怒鳴っているか、そんなことばかり。
病院にいて何か楽しみでも見つけて……って言っても難しいが、せめてこの状態でも機嫌良く、相手に敬意を払って、気分良く時間を過ごそうという気持ちが中高年男性には湧かないらしい。その様子を僕は残念だなーと思いながら眺めていた。

自分の父親を見ていてもそうだが、中高年以上の男性は、水平的な関係性を維持するのが困難らしい。
ゲイの世界では、参加者たちはそもそも肩書きを問わない(まれに肩書きをひけらかす人間がいるが、後で手痛いしっぺ返しを食うことが多い)関係性の間を漂っているので、水平的な関係に違和感をあまり感じない。そういう意味では、ゲイは若い頃からおばさん化している。

小田嶋隆氏によると、

1.女性は年代を問わずおおむね親切に接してくれる
2.男性の場合は、年齢が若いほど気遣いが行き届いている
3.おっさん、爺さんには、横柄、尊大、偏屈、無愛想な個体が数多く含まれている


まったくその通りで、「横柄、尊大、偏屈、無愛想な個体」から今時の若い者は〜と上から目線で物申されても、反発されるばかりだよね。そのリアクションに戸惑い、さらに意固地になるという悪循環。

(会社以外の)社会的産廃物扱いされないように、中高年男性は自分の会社内の人間関係に特化した状態から、心して抜け出すことに努めなくちゃならないね。なんだろ……イタリアの爺様たちのように、愉快で、気さくで、人に優しい存在になりたいじゃないですか。

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