真に人を救えるのは人ですから

人々は平和を欲しているが、テロリストは近視眼的であり、それ故に彼らは自爆テロを行う。我々は、祈るだけではこの問題は解決できない。私は仏教徒であり、信仰を信じている。問題を作り出したのは人間なのにも関わらず、問題の解決を神に委ねることは論理的なこととは言えない。神ならばこういうかもしれない「問題を作り出したのは人間なのだから、自分たちで解決しなさい」と。

ダライラマ


学生の頃に読んだ「地球幼年期の終わり」だったかな…SF小説の世界では、未来ではキリスト教もイスラム教もなくなっていて、仏教が哲学として残っていたという設定だったと記憶している。ダライラマのコメントはいいところを突いている。

日本人は人間が神の意志を勝手に忖度して口にすることは危うい結果を招く、と本能的に知っているのではないか、と常々考えていた。

神道の考え方では、神は荒魂(あらたま、あらみたま)、和魂(にぎたま、にぎみたま)という二つの側面を持っていて、神が荒ぶるとき人心は乱れ、地上は荒廃し、争いが起こる。神が和んでいるときは、神は優しく平和的で、神の加護によって恵みがもたらされる。だから、神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、日本人は神に供物を捧げ、儀式や祭を行う。そしてあまりにも荒々しい神は封じられ、人間世界から遠ざけられる……日本人と神の付き合い方ってそんなものだった。

支那、朝鮮人、朝日新聞、毎日新聞、そしてリベラルを自称する欧米人は、靖国神社は軍国主義の象徴で、そこへ日本人や首相が参拝することは右傾化であり、軍国化への兆しだと騒ぎ立てる。日本人の感覚だとそれとは真逆なんだけどね。戦場で亡くなった軍人の無念が怨念となり、荒魂となって災いをもたらすことがないように祀り、無念を慰めている場所が靖国神社。怨念が暴れ出すことを恐れている。

支那人・朝鮮人が手頃な旅行先として選ぶ九州。彼らの旅行記にしばしば太宰府天満宮が登場する。ここに祀られている菅原道真は日本三大怨霊の一つ(ほかは平将門、崇徳天皇)と恐れられ、その魂を慰める為に天満宮が建てられ、慰霊された。太宰府天満宮と靖国神社の存在意義は本質的には変わらないと僕は思っている。そこら辺の事情を彼らに説明しても理解されることはないのだろうが。

で、話しを戻すと、日本人にとって「神」とは、荒ぶらないように畏れ、供物を捧げ、慰撫する必要のある存在であり、あまりに手に負えない神は封じられ、忘れ去られる運命にある。神道には「教義(ドグマ)」がない。それをもって宗教ではないと言う欧米人がいるが、僕はそうは思わない。神がいようがいまいがどうでもいいが、その神と出会ったという人間の言葉を丸呑みし、それが真の言葉かどうかも検証せず、教義のどこどこにこう書いてあったから自らの暴力は肯定されるという考え方で行動する人間は邪であるとしか思えない。神は存在するとして、預言者が書き残した言葉が正しい神の意志と誰が証明できるのか?

ノラガミの中で、『(お社が)ないなんて、人から「要らない」って言われてんのと同じだ…」と夜トが泣く。

「神は人のためにいるんです。決して自分のためにあってはなりません。火伏の龍ですよ夜トさん。普段は気にも留められなくてもそこにいるだけで人は安心するんです。神は多分その程度のもの…真に人を救えるのは人ですから…」と恵比寿がいう。

ダライラマの発言と、恵比寿の言葉は本質的なところで同じなのだと思う。

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