小田嶋隆は好きではないが

今週の『小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明』の問題提起は同感できる。

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 まずひとつ目は、今回の投票結果を踏まえて「ポピュリズムの怖さ」という言い方が蔓延していることの不気味さについてだ。

 もう少し詳しく言うと、ここしばらく、メディアに載る記事やテレビの中で紹介されるコメントの中で「民主主義」という言葉と「ポピュリズム」という言葉が、無造作に使い分けられている感じがして、そのことがずっと気になっているということだ。

 なんというのか、投票や世論調査の結果で、望ましくない結果が出た場合に、その結果をもたらした調査の過程や投票の背景を「ポピュリズム」という言葉で分析している同じ人間が、望ましい投票結果については、「民主主義の勝利」「民意の重い選択」という言葉でそれを賞賛している感じがしているわけです。

 悪い結果はポピュリズムの作用で、良い結果は民主主義の成果だと言っているその人たちの中で、両者の区別はついているのだろうか。区別がついているのだとして、その区別の根拠は、自分にとっての結果の好ましさ以外に、何があるのだろうか。
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出典:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/063000049/


このメディアのダブルスタンダート、もっと言うと特定メディアの中の人のダブルスタンダードが、世の人たちから「メディアは胡散臭い奴らだと」足元見られる原因。このご時世にもなって「世論は自分たちが作ってゆく」というメディアの傲慢(あるいは扇動か?)に、まともな知的レベルの人達はちゃんと気づいている。メディアはなめてんじゃないよ。

同じことは「ヘイトスピーチ」「ヘイト」という言葉にも現れている。
自分の気に入らないことを「ヘイト」と決めつけるサヨクのご都合主義、身勝手さをみんな知っている。

最近僕は「知識人」という言葉について、こう考えている。

「それは、どっち方面の知識人なの?」

すでにバレているように、メディアが呼んでくる知識人という連中が、決して人格者ではないということ。また「知識人」というならば、エロ方面の知識人でも、変態方面の知識人でも知識人は知識人のはず。なのに、どうしてTVに登場する「知識人」はいつも同じ顔ぶれで、自分の専門外の分野に対して適当なことを喋っているのか。

その程度の知識人ならば、とげぬき地蔵あたりからバァちゃんを呼んできたほうがマシかもしれん。知識はなくても、人格者かもしれない期待感は残るから。

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