死ぬときは、日本人として死にたい。

聖なる夜に、なんつーことをほざいているのか、というタイトルなのだけどさ。
昼休みに『「同性愛者は異常」という人々が完全に間違っているという3点の理由』という長谷川豊さんの記事を読んで、「自分は、死ぬときは日本人として死にたいなあ」と思ったんですよ。

この話は、2015年12月10日に岐阜県の藤墳守県議が、本会議中に「同性愛は異常」とやじを飛ばしたという事件。まあ、72歳のおじいちゃんがやらかしてしまったことだから、あまり目くじらを立てても仕方ないと思うのですよ。

この事件には前段があって、岐阜県職員が「同性愛は異常でしょ。だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」とTweetした件が本会議場で取り上げられていたときのヤジだという。藤墳守議員は「少子化は問題と言いながら、子どもが生まれない同性婚を容認している社会が異常という意味だった」と言っている。まあ、同性愛者が直接子作りに貢献できていないのは事実なわけで、議員が口にするのは頭が悪いなあと思いつつも、少子化問題の点から同性愛者を異常な存在と考えている人がいるのはわからないでもない。

「だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」

これ、ノンケさんたちの、ごく自然な感想だと思うのだよね。
ノンケさんは「変態的異常性」と表現するが、「特殊性」と意訳してもよいかもしれない。
そして自らの「特殊性」を他人に押しつけ認めさせることは、果たして正義なのか?
(いやいや、なにが正義なんだよって突っ込みたくなるだろ?)

当たり前のことだけど、僕はLGBTの主張がいつも正しいとは考えていないんだ。そして、(セクシャル)マイノリティの側に立つ者は、常に正義と言わんばかりの風潮は非常に気持ち悪いと感じている。なんというか、少数者を擁護することは絶対善であるという考え方、それは反政府運動ならば何でも善、権力に立ち向かう者は常に善とする人たちにも繋がっていて危うい気がする。

「同性愛は異常」「生物の根底を変える異常動物だ」とか言われてしまうとちょっと困ってしまうが、「同性愛を前面に立てて政治運動する人は異常」と言われたら、僕はやや同意してしまうのだ。ネットでは先日の夫婦別姓違憲訴訟で敗訴した人に「こういうことに異常に固執する人って気持ち悪い。関わりたくない」という声があった。その感覚は僕にもあって、彼女が会見の場で取り乱している姿を見て、正直気持ち悪いなと思った。もし非同性愛の人たちが、同性愛者がわけの分からない格好をして、わけの分からない主張……しかも大体がリベラル寄りの主張……を繰り返す姿を見て違和感を覚え、異常、気持ち悪いと言うのならば、その気持ちは分からんでもないのですね。

同性愛者は、いわゆる異性愛者に比べると数は少ない。
マイノリティだ。

だけど、少なくとも僕は女性とセックスして子供作れないのと、同僚や接待先にキャバクラ、ハプニングーバー、ソープなんかに連れ込まれるのはお断りという以外、同性愛者であるというマイノリティな特殊性を「言い訳」にしたくないと思ってる。ひとりの社会人として、なんとか世の中を渡っていきたいのであって、同性愛者であることを理由に自らマイノリティやら差別される側に身を置きたくないのだ。差別はつらいけれど、自ら差別される環境を作って差別されているのは生産的ではないし。

そういう意味で、同性愛者を含むマイノリティを「認め」させ、「共存社会を作ろう」という動きなどは、なんというか、あらためて「差別」という問題を作り出している。一番楽で幸せなのは「お互いに気にしない」って状況だろう。

そういう点では、僕は同性愛者として死にたいとは思わない。
日本が大好きな、日本人として死にたいと願っているんだ。

聖夜になんというネタなんだろか。。。。

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