連休最終日の今日、付き合いで「とと姉ちゃん」を見せられた。
本編はどうでも良いのだけれど、その後に続いた「暮しの手帖」秘話みたいな放送が面白かった。
初代編集長の花森安治氏の「ジャーナリズムとは、ただ情報を伝えるだけじゃあないだろう」という言葉がとても印象深かったんだ。
敗戦後に創刊された雑誌だから、反戦意識も強かっただろう。
96号の『戦争中の暮しの記録』なんかは、すぐれたドキュメンタリーだったのだろう。
そんなものを読んだら、二度と戦争はごめんだという気持ちになっただろう。
ジャーナリストは「王様は裸だ!」と告げる役割を負わされた存在なのだと思う。
端的に言えば、「現在日本はアメリカの保護国で、現在進行形で中国共産党から侵略行為を受けている」と国民に警鐘を鳴らすのがジャーナリストの仕事ではないのか?
外務省は「中国を刺激するな」というが、海警の船やら軍艦が日本の領海とその接続水域に侵入している様は、先入観なしに語れば「中国共産党の暴力装置が、侵略行為を行っている。それを政府とメディアは糊塗している。あまつさえ、朝日新聞・毎日新聞は中国共産党の侵略行為を容認するような言説を垂れ流して、国民を間違った方向へ導こうとしている」としか考えられない。チベットで、ブータンで、インドの北で、南シナ海で中国共産党が何をしているのか。侵略と不法占拠だ。尖閣諸島付近への軍艦進入は、それと類似行為である。中国共産党から侵略行為を受けていると、日本人は正しく認識すべきではないか?
国際法は大事だ。
それを「ただの紙切れ」と言ってのけたのが中国共産党である。
国際世論が許すはずもない?
中国共産党がチベットで行っているエスニッククレンジングに、国際世論がなにか役立ったと言えるだろうか?それが日本で再現されないと言い切れる根拠を示したメディア・ジャーナリストを僕は知らない。せいぜいアメリカ軍がいるから「うかつに」は手を出せないだろうという希望的観測と、願望にすぎない。
戦争は避けられるなら、避ければいい。
現場は悲惨なことになること間違いなしだから。
だが、戦争を挑まれている時、相手が「核心的利益」とターゲットを定め、力でもって奪い取ることを躊躇していない状況で、最終的に話し合いで解決できるなんてことを、考えないほうがいい。
嫌な例えだが、服をはぎ取られ、下着に手をかけられている女性が「やめて!話し合えばきっとわかるわ!」と言ったところで、レイプ犯が手を止めると思うかい?ひょっとして手を止める可能性は否定しない。そのかわり「じゃあ、お前の妹を差し出せ!」と代償を求められる。自分の痛みを先延ばしするために、誰かを生贄にした罪をかぶる勇気を、日本国内の平和主義者が持っていると僕は思わない。いや、彼らはご都合主義者だから、それを罪だとすら認めないだろう。
東京スポーツ2011年1月1日の記事で森永卓郎氏が、こんなことを述べていたことを思い出す。
「私は日本丸腰戦略というのを提唱しています。軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれればそれはそれでいいんじゃないかと」。
正月の記事に、こんな痴れ者のコメントを引っ張ってくるのは、東スポなりの逆説的警世の論だろうか、といまなら苦笑して読むこともできる。当時はかなり衝撃を受けた。字面通りに受け取るならば、狂人の戯言だ。これが正しい見識なのかと。後世の教科書に「昔、こんな愚かな民族がいました」と書かれるくらいなら、「全滅と引き換えに中共人民解放軍を半殺しの目に合わせた誇り高い、勇猛な民族がいました」の方がまだましだと僕は考えていたから。
戦争は悲惨だ。
戦争を賛美するつもりは全くないが、戦争行為に直面するかもしれない事態に、その打開方法について思考停止するのはいかんじゃろ。中国共産党が自分たちの生き残りのために戦争を仕掛けてくるのならば、僕らは自分たちの生き残りをかけてそれを押し返さなくちゃならない。
歴史に学べという人たちがいる。
そういう人たちにとって、塩婆(=塩野七生)は天敵だろう。
なんども引用してきた「レパントの海戦」で、コンスタンティノープル駐在ヴェネツィア大使マーカントニオ・バルバロの演説こそ、僕らは歴史に学ぶべきだろう。
国家の安定と永続は、軍事力によるものばかりではない。
他国がわれわれをどう思っているかの評価と、他国に対する毅然とした態度によることが多いものである。
ここ数年、トルコ人は、われわれヴェネツィアが、結局は妥協に逃げるということを察知していた。それはわれわれの彼らへの態度が、礼をつくすという外交上の必要以上に、卑屈であったからである。ヴェネツィアは、トルコの弱点を指摘することをひかえ、ヴェネツィアの有利を明示することを怠った。
結果として、トルコ人本来の傲慢と尊大と横柄にとどめをかけることができなくなり、彼らを不合理な情熱に駆ることになってしまったのである。被征服民であり、下級の役人でしかないギリシア人にもたせてよこした一片の通知だけでキプロスを獲得できると思わせた一事にいたっては、ヴェネツィア外交の恥を示すものでしかない。
ヴェネツィアを日本に、トルコを中国共産党に置き換えれば、そのまんま現代でも通用する話だ。
この先は武力衝突が起こるか、経済クラッシュで中国共産党が崩壊するか、そのどちらかだろう。
日本は李氏朝鮮の末期のような、中国共産党に国を売るという選択肢はありえないわけで、だとしたら武力衝突も念頭に置いた政治的オペレーションが、結果として多くの国民の命を救うことになる。武力衝突の可能性と、それに勝ち抜くことの備えを語らないから、野党はリアリティがない。戦争は避けたいが、大国が戦争を望んでいる以上、戦争は発生するのだ。日本には選択肢はなくて、その時は受けて立つしかない。受けて立たねば、その先にあるのは中国共産党に虐げられ、二等市民に落とされた半奴隷生活だろうよ。
長々と書いたが、だから、野党を僕は全く信用していない。
自民党を倒すのは簡単だ。
反自民、アベを許さないというのは政策でもなんでもないただの願望。
自民党より良い政策で、ちゃんと予算的裏付けもあり、「国民の生命と財産を間違いなく担保しうる」政策を訴え、それを実現できる目処を提示さえできれば、政権交代なんて簡単だ。
平和はいい。平和バンザイだ!
だが、平和は結局あらゆる均衡の上に成り立っていて、その均衡が破れたいま、軍事衝突を躊躇しない隣国を話し合いで制御できると主張する政党は、現実感を失っている。だから、野党はいつまでたってもゴミ扱いされるのだ。