JUNEの墓標

グラスの中で、淡く黄金色を帯びた白ワインを眺めながら、僕の頭の中はとりとめもない想念が渦巻いていた。それはもう、本当にとりとめもない事柄ばかりで、やがて「ネアンデルタール人は絶滅したのではなく、ホモサピエンスと混血もあって、僕らの遺伝子の中に僅かな痕跡がある」という話を思い出して、そこでニューロンが閃光を放った。

8月、「ゴリラさんのご質問に対して」という記事を書いた。
これは以前に書いた記事の焼き直しのようなものだったが、そのいずれも、1990年代中頃にボーイズラブ(BL)というジャンルが確立したようだ、と書いた。だけど、なぜ「JUNE」は滅び、BLが生まれたのかという理由は、自分でもよく分かっていなかった。

すでに8月10日の記事の中で、「風と木の詩」はマンガ界で燦然と輝く金字塔であることを紹介した。あわせて、竹宮恵子が「当時はベッドで男女の足が絡まっているのを描いただけで作者が警察に呼び出されていましたが、私は作品を描く上で愛やセックスもきちんと描きたかったの。男×女がダメなら男×男でいけばイイと思ったの」という創作動機を語っていることも記した。美少年の男性同性愛者の姿を借りながら、生みの親の真の狙いと捻れた関係のそれは、なんだろう、なぜか「ヒルコ」を連想してしまう。

「風と木の詩」が登場したとき、世間の人たちはどう取り扱っていいのか悩んだろうな。結局そのジャンルは「耽美小説・耽美漫画」と呼ばれるようになった。神保町の書店で「耽美コーナー」とかいう表記を見かけたときは、タイムスリップした気がした。

耽美小説・耽美漫画を、当時の連載誌JUNEの名を被せて呼んでいた。

JUNEの誕生と、その衰退は、おそらく「栗本薫」の存在を抜きにしては語れない。前述の「風の木の詩」が週刊少女コミックで連載が始まったのが1976年。栗本薫が「真夜中の天使」を発表したのが1979年。芸能界ネタだった。そのあと「翼あるもの」「朝日のあたる家」が続く。悪魔的な美少年今西良はさっくり死んでしまい、その後に残された森田透のなかなか救いの来ない物語が延々と続く。

今となってはあまり思い出せないのだけど、「翼あるもの」や「真夜中の天使」の読者で、男性同性愛者は気持ち悪いという嫌悪感を抱く人は少なくはなかっただろう。だけど、いま考えると「翼あるもの」「真夜中の天使」に「JUNE破綻」の要素もなかったような気がするのだよ。道行き心中のような救いのなさと、でも、森田透が長い闇を抜けて行く「朝日のあたる家」を、僕はキライじゃなかった。

JUNEは1979年に創刊し、そして17年後の1996年に休刊する。栗本薫が死去したのが、それから13年後の2009年。彼女はJUNEの女王であったし、JUNEの精神的支柱であった。いま思えば、JUNEが滅びる蹉跌は小説JUNE誌上で「へんへーが手本を見せちゃる」というノリで始まった「終わりのないラブソング」(1991年第一巻刊行)であったと思う。

高校二年の村瀬二葉は人を拒み、傷つけ、たったひとりの青春を歩んでいた—。16歳の夏に、力ずくで“女”にされ、「心はちがうんだ…」と叫び続ける二葉…。やがて少年院送りとなり、奈落の底へと落ちてゆく二葉だったが、そこには幾度となく面会に訪れるクラスメイト—麻生勇介の姿があった。運命に裏切られ、潰されながら、何ひとつ信じることさえ知らない二葉に芽生えてゆく男どうしの恋。今日も歌い続ける終わりのないラブソング。衝撃の青春小説ついに登場。

あらすじだけ読むと「なんのこっちゃ」という感じだが、美少年村瀬双葉は暴走族のリーダーの武司に魅入られて、レイプされてしまう。そのうち少年売春の疑いをかけられ少年送りに。絵に描いたような転落人生だが、そこで三浦竜一と出会う。こいつが暴力的で二葉をめちゃめちゃ犯すんだけど、そのうち二葉は彼の暴力的なセックスを受け入れてしまう。「だって竜一はぼくのこと愛してるんだもん」ってわけで。少年院の檻の中という状況とはいえ、ひどいレイプが続く。そのうち心が通じ合って暴力も減るわけだが。。。。

JUNEには少なからずレイプが出てきた。男と男という関係は愛し合うものでも、ましてやセックスする対象でもないという前提があって、それでもレイプまがいの(いや、ぜんぜんレイプなんだけど)セックスを強要するのは「ひとえにお前を愛しているから。愛しているからお前に近づきたいし、お前を抱きたいし、お前の中に入りたいんだ」という一方的な偏愛だった。しまいにはレイプされる方も「そんなに僕のことが好きだったの?いいよ、あんたのすべてを受け入れるよ」とか言い出す。

いま考えると、DVそのまんまだし、DVの加害者と被害者の共依存みたいな内容のものが少なくなかった。当時JUNEを取り巻く雰囲気をあまり思い出せないけれど、「男性同性愛者の禁断の愛の物語」というハードルを上げた恋愛物語の中で、関係者の意識は麻痺していたのかもしれない。誰かが冷や水をぶっかけなきゃならなかったのだろうけど、JUNEのコアメンバーから出なかった。JUNEとはそういうものだという雰囲気だった。

結局、JUNEの神殺しをやってのけたのは、竹宮恵子、栗本薫の同世代の天才、萩尾望都だった。萩尾望都は1992年から連載開始した「残酷な神が支配する」で、「どんなに愛しているったって性的虐待された少年が幸せだと思うはずねーだろ、ばぁーか!」ってJUNE的幻想にとどめを刺す。「残酷な神が支配する」と言えば、性的虐待、近親相姦、ドメスティック・バイオレンス、同性愛、殺人、未成年の売春、ドラッグ、トラウマがてんこ盛りのハードな作品で、落ち込んでいる時に読んではならない作品だ。また、萩尾望都の問題提起と同時期に、1992年から4年間にわたって行われた「やおい論争」があって、JUNE的なある種倒錯した愛の形へのアンチテーゼ、実在する同性愛者に対する表現上の「性的虐待」との指摘がJUNEを滅ぼしたのだろう。

竹宮恵子の耽美漫画から始まって、それを耽美小説で引き継いだ栗本薫、その耽美の概念を徹底的に否定した萩尾望都。これがJUNEの盛衰史だったのだと僕は思う。

Onde a terra acaba e o mar começa
(ここに地終わり海始まる)

神は殺され、あの熱い季節は過去のものとなった。
それが仮に誤りであったとしても。

いまではあちこちで同人誌即売会が開催され、そこではたくさんの物語が売買されている。ローソンで買い物をすれば「Free!」の少年たちが裸体を曝している。もちろんこの子らも腐女子たちのごちそうになっている。こうやって、男性同性愛もコモディティ化し、男性性もただの商品に成り下がった。そしてすべては日常に飲み込まれて倦んで行く。

激しい情念のJUNEは、ボーイズラブという形に洗練された。JUNEは死んだが、その魂はきっと誰かの作品の中に引き継がれているにちがいない。おぞましいものも、懐かしいものも すべてがそこにあったのだから。


コード書きよりドキュメント作り

昔、最初に入った会社で先輩にあたる人(いや、向こうは先輩後輩という関係とは思っていなかっただろう)が、コードを書くよりもドキュメント作成に時間取られてかなわない、とぼやいていたことを思い出す。

実際、自分でしょぼいコードを書いて、そのドキュメントを作っていると実感する。確かに時間取られるなあと。

BASICでコードを書いていた時代は、ウォーターフォールのように最初から最後まで読んでいけば内容は分かる。だけどオブジェクト指向の時代になると、コードの中からぽつぽつコメントを拾い出していてもよく分からない。ましてRailsのように、いくつもの設定ファイルやコードが組み合わさって動いているようなものになると、コード中のコメントだけでは絶対に不十分だ。

というわけでドキュメントを書く。
下手するとコードそのものよりもドキュメントの方が長くなるぞ。

ま、書いているうちに設計ミスに気づいたりもするのだが。

ノラガミと会社

週末、やっとPCに向かって仕事する時間ができた。
ずっと寝かしていたネタを出してみようかと。

たまたま「会社」って言葉を弄んでいた時に、「ノラガミ」でおもしろいページに遭遇した。それは第7巻にある。夜ト神が恵比寿から貰った大金をビルの上からぶち撒いてしまい、「自分のお社を持つ」という長年の夢が叶わず、落ち込んで寝込んでいるシーンだ。夜ト神は、社を持たない無名の神である。




夜トはひよりから手作りのミニ社を貰い、喜びの涙を流す。

『夜ト…そんなにお社欲しいの?』
『…欲しいさ。ないなんて人から「要らない」って言われてんのと同じだ…』

『お社を頂くってのは光栄なことよ。
 「ありがとう」とか「お願いします」とか人からの想いの証だから』

なるほどなあ。

僕らは日々「会社に行ってきます」と言って、家を出る。
「会社」という言葉を反対から読むと「社で会う」になる。もともとcompanyの翻訳語で、「会社」という用語に定着したのは明治に入ってからという。それまではいくつか翻訳語があったそうで、そのうちの一つが「社中」。有名な「亀山社中」のアレだ。いずれにしても「社」という漢字が入るってことが、僕の頭の片隅にずっとこびりついていた。

神様とお社に関係について、小福(正体は貧乏神)は語る。
『夜トちゃんみたいな無名な神様はね…人に忘れられたら消えてしまうの…』
『人の願いから生まれたのがあたし達だもの。その願いが途絶えた時、神様の役目もおしまい…要らなくなっちゃうわ』
『人って忘れちゃうからこういう形があるとあたし達は嬉しいのよね。思い出してもらえるから』

なるほどなあ。

これは神から見た「会社」の意味(定義?)になるなあと。
この場合の「神」を今風の言葉に翻訳すると、例えば「ビジネスモデル」。

人の願いや想いから生まれたのがビジネスモデル(=神)であって、その神を忘れないように形をつくるのが「お社」で、そのお社での活動が「会社」(社で会う、社で神に会う)であり、そのお社で会うメンバーが「会社員」ということになる。会社員を神職だとしたら、会社の業績が悪い状態は、神が弱っているのか、神職達が神の望みではないことを行っているから発生するのだろう。

そんなことを連想した時、ある経営者が「ただ頭がいいだけのヤツより、情熱のあるヤツを採用したい」と言っていたことが腑に落ちた。採用面接の時、会社の中の人は「僕らと同じ神様を信じて、お社を盛り上げていける人かい?」という視点で面接しているよ、確かに。だから、就活中の学生さんに限らず、会社の社風を調べていて風通しが良いとか、家庭的な雰囲気な会社だ、だけではなくて、その会社のコア(核、この際「神」と言ってもいいだろうね)はなにか、それを信じ切ってメンバーが活動できているか、という視点で観察してみると良いかもしれない。そして、自分もその神様を奉じて盛り上げてゆけるマインドを持てるかどうかよく検討すれば、入社後のミスマッチに苦しむことも減るかもしれないね。

そういう意味では、例えばソニーのような危機状態に陥っている企業も、SWOT分析していても仕方ないのかもしれない。分析は正しくても、そのお社にその「神」がいない、あるいは「神」が望んでいないことを強いても、たぶんそれは実現しないのだから。

グローバリズム全盛の時にこういう会社のとらえ方は時代錯誤かもしれないが、ノラガミを読んでいて腑に落ちた想いを書き留めておきたかった。

※「会社」の語源とは異なった、個人的なグルグルとした想いです。