つい先ほど、寄り道したカフェで「荒野へ」を読み終えた。
ジョン・クラカワー……10年ほど前、顔も知らない人に熱く語っていた事を思い出した。今は、何もかも皆懐かしい。
1992年夏、アラスカの荒野に放置されたバスの中で、腐乱死体で発見された青年の人生を追いかけた物語。本の表紙に掲載されたバスの写真が、なにか尋常じゃない寂寥感が溢れ出していて、僕は長い間手を出さずにいた。今回、改めて手に取ってしまい、そして深いため息をつくしかなかったんだけど。
日本人には「荒野」という感覚があまりないんだと思う。
日本人にとって自然は身近で、共生する存在であることをDNAレベルで刷り込まれている。そりゃ、北海道の釧路平原なんて荒野そのものなんだろうけれど、現実的に「荒野」というものに実感がわかない。
ところが欧米人というものは、時々荒野で自然と対峙したくなるものらしい。イエスだって40日ほど荒野を彷徨ったそうだし。腐乱死体で発見されたクリス・マッカンドレスは、大学在学中からアメリカ中西部の荒野を彷徨い、そして彼の人生最後の120日あまりをアラスカの荒野で一人で過ごした。
この本は一時期若者のバイブルになったんだそうだ。
反文明、反物質主義、エコロジストetc、こういうものに惹かれてゆく人は一定程度現れる。クリス・マッカンドレスの場合、変わり者だったようだし、家族関係もあまり良好でもなかったようだし、他人に指図される事が嫌いだったようだ。頭が良く、人並み以上の才能に恵まれ、純真で、情熱的で、理想主義で……でも、きっと彼は現代社会の仕組みと折り合いをつけにくかったんだろう。彼の純真さは、彼と出会ったたくさんの人たちを魅了しながら、彼自身は一カ所に落ち着くのも、誰かに指図されるのも嫌いで。社会の仕組みと折り合いがつけられず、自由でいたかったんだろう。
彼は、たぶん不慮のトラブルで命を落としたと想像されている。でもその「荒野」はハイウエイから数キロの場所で、サハラ砂漠のど真ん中とか、タクラマカン砂漠の灼熱地獄の中、とかいうわけでもないのだ。本当に「荒野」を目指すなら、アフリカとかまったく別の文化圏での「荒野」でも良かったはずなのに、彼はアメリカで「荒野」を目指している。僕は最後まで腑に落ちなかった。なぜなんだろう。独りでしばらく「土地が与えてくれるものを食べて生活する」という彼の生活も、意地悪くいえば、しがらみから逃れて独りぼっちのキャンプ生活を楽しんでいた若者といえなくもない。青臭いモラトリアムとか?
それでも、理想主義に燃えていた青年が悲劇の結末を迎える様は読者の心を掴んで離さない。彼は荒野に分け入って、結局還って来れなかった人だけど、人は誰でも自分の力がどこまで通用するのか試してみたい気持ちと、美しい自然と対峙してみたい誘惑には抗いがたいから。
ジョン・クラカワーは、作為的かどうか分からないけれど、クリス・マッカンドレスの風貌についてほとんど記述していない。本人の写真を見て、なるほど、笑顔が魅力的な好青年だったことが分かる。だからこそ、なぜ彼は荒野を目指したのか、世の人は気になるんだろうな。
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