朴裕河氏は、大日本帝国が戦争を始める前から公娼制度による売春施設がすでに存在しており、『アジア全域にあったとされる売春施設をすべて「日本軍慰安所」と見なすのは無理がある」と指摘している。
『「慰安婦」を必要としたのは間違いなく日本という国家だった。しかし、そのような需要に応えて、女たちを誘拐や甘言などの手段までをも使って「連れていった」のはほとんどの場合、中間業者だった。「強制連行」した主体が日本軍だったとする証言も少数ながらあるが、それは軍属扱いをされた業者が制服を着て現れ、軍人と勘違いされた可能性が高い。たとえ軍人が「強制連行」したケースがあったとしても、戦場でない朝鮮半島では、それはむしろ逸脱した例外的なケースと見なすべきだ。そういう意味では慰安婦を連れていった(「強制連行」との言葉が、公権力による物理的力の行使を意味する限り、少なくとも朝鮮人慰安婦問題においては、軍の方針としては成立しない)ことの「法的責任」は、直接には業者たちが問われるべきである。それも、あきらかな「だまし」や誘拐の場合に限る。需要を生み出した日本という国家の行為は、批判はできても「法的責任」を問うのは難しいことになるのである』(P,46)。
そして、長く引用するが、1965年の日韓基本条約締結の際、日本側から個人請求を残すことを提案していたにもかかわらず、韓国政府側が拒否したという事実がある。後々のことを考えていなかった韓国政府の政治的判断ミスであるし、とにかく個人補償の金を引っ張りたい韓国政府の事情もあったのだろう。しかし、個人請求の芽をつぶしたのは韓国政府であり、責任は重大だ。
『1990年代の日本の謝罪について考えるためには1965年の基本条約を、1965年の条約について考えるためには1910年の併合条約を考える必要が生じる。そして当時、植民地支配が法的に禁止されていなかった以上(もちろんそのときの「法」とは強大国同士の「了解」でしかなかった)、植民地支配によって被った精神的・身体的被害に対して「賠償」を要求できる根拠が存在しない、という問題が生じるのである。
基本条約に向けての韓国政府の要請は、植民地支配に対する賠償ではなかった。日本は日韓会談における非徴用者に関する会議のとき「補償金とはどのような性格のものなのか」と聞いている。それに対し韓国は「未収金は当時規定によって受けるべきものを受けられなかったものであり、補償金は生存者、負傷者、死亡者を含めて非徴用者に対する補償、すなわち精神的苦痛に対する補償を指すもの」と話した。つまり植民地支配全体に対する賠償要求ではなかった。
ところが、日本はこれに対して「この項目は私的な請求が殆どだと思うし、国交が回復し正常化すれば日本の一般法律に則り個別に解決する方法もあると思うが、この点に関してはどう思うのか」と聞いていた。つまり日本が主体となって個別に補償を行う方法を日本側は提示していたのである。しかしここでも韓国は「国が彼らに代わって解決しようとしている」と主張した。また非徴用者の補償金を巡って、日本は「補償とは国民徴用令第19条によって遺族扶助料、埋葬料などが支払われることになっており、工場に関しては工場法によって、軍人軍属に関してもそのような規定があるが、当時のそうした経緯に沿った補償を意味するのか」と聞き、韓国は「新しい基板のもとにそれに相当する補償を要求する」「他国の国民を強制的に動員することで生じた非徴用者の精神的・肉体的苦痛に対する補償を要求する」と答えている。それに対し日本は、「徴用時には日本人として徴用されたものなので、当時の補償のようなもの、つまり、日本人に対して今行われているものと同様の補償を要求するのか」と再度質問し、韓国は「新しい立場から要求する」と繰り返している。
「新しい立場」というのは、日本人としてではなく、韓国人としてもらいたいということだろう。それが、解放された民族としての妥当な主張であるのは言うまでもない。たとえ国家の頂点にいる少数が合意したとしても、求めないのに「日本人」になってしまったことにより被ったことに対する補償を求めたのだろう。
そして、このとき日本は「我々の立場は未払金が本人の手に渡されなければならない」とし「日本援護法を準用し個人基盤で支払えば間違いない」としながら、「個人に対する直接補償を主張」した。個人が被害事項を後から訴え出る可能性があるので、日本国が直接韓国の個人に補償するとしたものだったのだろう。
しかし、韓国政府はそのやり方を拒否した。すでに指摘されているように、当時の日本側には「徴用が強制動員だという認識がまったくなく、そのため、損害賠償をするべきだという意識もまったくなかった」のだろう。そのような認識が正しいかどうかは別として、日本が1910年の合併と国民動員を「合法」だと認識するかぎり、当然の発想だったはずだ。
実際に日本側は、「徴用者補償金に関しては(中略)精神的苦痛に対する補償を請求しているが、当時の韓国人の法的地位が日本人だったという点に鑑みて日本人に支払われなかった補償金は支払えないと考える。しかし死亡及び傷病者に対しては当時の国内法によって給与金が支払われたはずなので、未払いのものがあれば被徴用者未収金として整理されるはずで、その項目で検討したらいい」と話した。
つまり、日本は「元日本人」としての朝鮮人、過去の「日本国民」の枠組みを使えば、被害に対する補償は可能、と話していた。しかしキム教授が述べるように「請求権に対する両方の認識の差異」が生じたのであり、「韓国側は被徴用者の精神的肉体的苦痛に対する補償までを含むものと請求権を幅広く認識していたのに対して、日本側は日本の国内法によってすでに成立している権利のみを念頭に置いていた」のだろう。
こうした認識の差異は、時の日本政府に植民地支配に対しての謝罪意識がなかったことを示す。そうではあっても、韓国政府がこのとき日本の意見を受け入れて個人補償部分を残しておいたなら、ほかの被害者もそれぞれ「適法」な補償を受けることが可能だったかもしれない。しかし韓国政府はそうはしなかったし、これまで慰安婦や被害者たちがほとんどの裁判で負けた理由はまさにここにある。
日本政府を相手にした裁判がこれまでずっと敗訴してきたことに関して、韓国は、日本に謝罪意識がないことと捉えて非難してきた。しかし、韓国政府の訴訟が敗訴したのは単に「日本の贖罪意識がない」ためのことではない。すでによく知られているように、1965年で終わっていると日本が考えていることの背景には、このような事情もあったのである。個人の請求部分を、代わりに受け取ってしまって、日本に対してもはや個人請求をできなくしたのは、残念ながら韓国政府だった』。(P,185〜P,188)
で、問題は補償金の支払い義務が韓国政府にあったはずなのに、第二次世界大戦から50年後、日韓基本条約締結から30年間もその義務を履行しなかった韓国政府に大きな責任があるのではないか。これは韓国内の社会保障制度がまともに機能していないことが原因ではないのか??
『1990年代後半に、韓国政府は慰安婦として認められた者たちに4000万ウォン程度の金を支払った。そして2005年に日韓会談の文書を公開した後、改めて徴兵者の遺族や被害者たちに補償金を支給した。90年代の韓国政府支援金は、日本政府の基金を受け取らないことを前提とした日本への「対抗的性格」の支援金だったが、2000年代の支援金は日本が韓国政府に支払った植民地被害者に対する補償金を、個々人に支払ったものだった。
たとえ日韓協定時の日本に植民地支配に対する贖罪意識が明確に存在しなかったとしても、日本が個人被害に対する補償を行おうとしたのは間違いない。そして「慰安婦」という存在も、日本にとっては「後から現れうる個人」だった(「補償責任」があると認めた場合のことであるが)。植民地支配によるさまざまな問題が日韓協定時に議論されなかったのは確かだが、当時の補償金がそのような状況を想定して渡された金額であることは間違いない。
当時の個人請求権消滅責任が韓国政府にあったとすれば、日本の法的責任を問うのは難しい。そして(後述するが)、1990年代に行われたアジア女性基金の「道義的補償」は植民地支配によって生じたことを意識しての補償だった。
国家による精神的・身体的被害を補償する法、帝国の植民地支配による被害に対して補償するようにした法が、日韓協定当時存在しなかったのは残念なことである。しかし、それは他国を支配することを悪いこととは考えなかった帝国主義時代と、それに対する問題提起を十分にできないまま日本と国交を結ぶことになった冷戦体制を、日韓が生きてきた時代的な限界によるものだった。
そして2006年以降に、韓国政府が慰安婦を始めとする植民地時代の被害者に渡した支援金は、名前は「道義的補償」でも、内容的には1965年の条約のとき日本から受けたお金を遅ればせながらも個々人に渡したことになるのだから、実質的には法的責任を全うしてことにもなる。
何よりも、訴訟者の被害者団体の賠償要求の根拠は「強制労働」と「人身売買」であり、それが当時の国際法に違反するものだということにあった。しかしそのことを「直接に」犯した主体が「業者」だった以上、日本国には、需要を作った責任(時に黙認した責任)しか問えなくなる。そういう意味でも、法的責任を前提とする賠償請求は無理と言うほかない。』(P,190)
朴裕河氏は、帝国主義と人権(狭くは女性の人権)問題と捉えているが、こと「補償金」に関して言えば、問題の原因を作り出した責任の多くは韓国政府にあるのではないかと僕は思う。もともと日本政府に対する個人請求の手段を残しておくべきだった。日本政府から預かったお金はさっさと支給しておくべきだった。
法的責任が問えなく(抵挺協の主張する「強制連行」が誤りである)、「道義的」意味での補償プログラムだったアジア女性基金を妨害した抵挺協とサヨクの政治活動の問題は韓国内の国内問題である。そして昨年末の慰安婦問題日韓合意にて『慰安婦問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で最終的かつ完全に解決済みとの我が国の立場に変わりないが、今回の合意により、慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に」解決された』と安倍首相が述べているように、もはやすべては韓国国内の問題となる。慰安婦に手紙を出せ、出す気は毛頭ないという日韓対立は、韓国政府が自分のやるべきことを自力で成し遂げていないから生じたわけで。
覆水盆に返らず。
韓国人と、韓国政府にはよくよく理解してもらいたいと思う。
2016年10月13日の聯合ニュースで、
====================
韓国の国会外交統一委員会は13日午前、外交部に対する国政監査を行ったが、沈載権(シム・ジェグォン)委員長が冒頭、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる昨年末の日本との合意の無効を主張し、与党セヌリ党所属の議員全員が抗議して退場、監査が一時中断した。
最大野党「共に民主党」所属の沈委員長は「まだ被害者の痛みと傷を完全に癒やせる解決策を見いだしておらず残念」とした上で、「合意の無効や『和解・癒やし財団』の解体、慰安婦問題をめぐる韓日政府の全面的な再交渉を要求する」と主張した。
====================
が伝わってくると、韓国人の言う日本のネトウヨからは非難の声が上がる。
====================
20: ジャンピングDDT(チベット自治区)@\(^o^)/ [LV]:2016/10/15(土) 21:21:37.25 ID:jAvbfUtg0.net
>>15
朝鮮には契約も条約も無いんだよね
彼らは全てを序列で判断するから、序列が上なら下に何を要求しても良い、
逆に下の場合、何を要求されても喜んで応じないといけない
そして、日本は韓国の下位の存在だから、
それを「知らしめる」必要があるというロジック
これが韓国の「反日」の本当の原因であって、歴史問題ではないんだよな
22: ダイビングエルボードロップ(静岡県)@\(^o^)/ [ニダ]:2016/10/15(土) 21:24:10.62 ID:SpRn9C1q0.net
言いがかりを金で解決したら
言いがかりで金がもらえると勘違いした
30: ジャンピングエルボーアタック(長野県)@\(^o^)/ [US]:2016/10/15(土) 21:32:45.42 ID:qkZIWC0c0.net
連中の脳の中には
世の中の人間は全て加害者と被害者しかいないことになってるのか
33: ジャンピングDDT(チベット自治区)@\(^o^)/ [LV]:2016/10/15(土) 21:36:26.16 ID:jAvbfUtg0.net
>>30
その通りなんですよ、冗談抜きで
朝鮮人の中では「甲乙」と呼ばれる概念がある、
これは序列の上下を表すもので、
甲(序列が上)は乙(下)に何をやっても良いという事になっている
そして朝鮮人は自らを「甲」だと考えている訳だ
53: ダイビングヘッドバット(家)@\(^o^)/ [DE]:2016/10/15(土) 22:04:26.36 ID:dbSXn/f40.net
兄が困っているのを見て見ぬふりできる日本人ではあるまい
ここは日本が率先して再度交渉のテーブルに
着くべきではないだろうか?
54: キン肉バスター(家)@\(^o^)/ [NO]:2016/10/15(土) 22:06:46.86 ID:JdfLcnKN0.net
>>53
韓国に帰れキムチ野郎
77: ジャストフェイスロック(茸)@\(^o^)/ [CN]:2016/10/15(土) 23:17:44.33 ID:kW5ZRUw+0.net
遡及なし、不可逆という言葉を理解できる知能はないのか?
つけあがらせるだけだし、交渉の余地はない
====================
こういう事例が積み重なるから、日本人からは韓国人は、約束・条約を守れない人間、時系列で物事が考えられない(不可逆的に解決)人間、自分たちで約束したことを実行できない人たちと見下されるようになる。嫌韓感情というのは歴史問題から生じたわけではなく、今現在進行している韓国人の振る舞いに対する日本人の嫌悪感、拒否感ということが理解されるようになると、もう少し議論が進むと思うのだけどな。
『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』を読了
一通り読了。
まいったな……ちょっと整理しないと感想を書くことは難しいな。
その前に、最近こんな新聞(ハンギョレ)記事が掲載されて、一部で話題になっている。
==========
多くの日本人が、韓国には「反日」があるではないかと反論するだろうが、韓国の反日には日本の嫌韓のような他の民族に対する差別・蔑視・呪いの感覚はない。韓国人のほとんどが日本人の誠実さや勤勉さを尊敬しており、毎年ノーベル賞受賞者を出している日本の基礎科学の底力に驚嘆している。反日感情が噴出するのは、日本が過去に犯した植民地支配と侵略の歴史に対し、正しく謝罪する姿を見せないような印象を与えるときくらいだ。過去の歴史的経緯を見ても、韓国は日本を侵略して殖民支配したことも、言語や文化を奪おうとしたこともない。また、首都に大地震が発生した際、怪しそうな人に「15円50銭」と言わせて、正しく発音できなかった人を虐殺したこともない。
[記者手帳]日本の嫌韓と韓国の反日(ハンギョレ)
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朴槿恵の「加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」という演説は、日本では呪詛だと捉えられている。韓国ウォッチャーが列挙した「原爆は神の懲罰」「震災を祝います」などなどを、これが呪詛でないとハンギョレが言うのならば、かの国の呪詛とはどんなにおどろおどろしいものなのか想像もつかない。
朴裕河氏は著書の中で『韓国は「道徳的に優位」という正当性による「道徳的傲慢」を楽しんできた。「被害者」に対しては疑問を提起しない』。『傲慢は、想像力に乏しい。そしてそのような傲慢と糾弾は相手をかえって萎縮させる。そういった道徳的志向性が、相手の屈服自体を目指す支配欲望のねじれた形になったこともしばしばあった」と指摘している。韓国メディアによる日本蔑視、呪詛の記事を読んでいると、朴裕河氏の指摘のように、韓国人は道徳的傲慢をいまも娯楽としているのだなと感じる。
朴裕河氏は、慰安婦とは「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」であるというイメージは誤りであると指摘している。慰安婦を必要としたのは日本軍であれど、実際に慰安婦を集め、管理し、客を取らせていたのは慰安所の経営者たちである。劣悪な客のとらせ方をした、殴るなどの暴力を振るっていたのは慰安所の経営者たちであるとしている。軍が女性狩りをしたという吉田清治の著書は嘘であることはすでに明らかになっており、二十万人の少女が連行という主張も、挺対協が初期に女子挺身隊と慰安婦を混同していたからだ、と指摘している。
彼女は慰安婦とは「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」という挺対協が作り上げたイメージは誤りであり、それを訂正し、韓国国内を含め広報してこなかったことが問題だとしている。
僕が思うに、この問題を日本人の立場では韓国政府、挺対協、そして一般の韓国人がこの誤ったイメージを現在も世界中に撒き散らしており、韓国人の主張する慰安婦イメージは誤りである以上、韓国の主張は受け入れることができない。日本人からすれば挺対協のイメージを受け入れることは冤罪で死刑台にあがるようなことだ。だから慰安婦問題に日本人は強く反発する。韓国人は日本人を悪魔化しすぎた。ハンギョレ新聞の記者には理解できないのだろうが、日本人の嫌韓は道徳的云々は一切関係ない。日本人を悪魔化する韓国人が嫌いである、こっちに来るなという反発だ。
慰安婦問題は「軍人に性奴隷にされた女性」というショッキングな内容だから、韓国の活動家らは道徳的・宗教的・人権意識の高い欧米のリベラルとは連帯しやすかっただろう。そして大国が好きな韓国人の感性からすれば、欧米の列強とつるんで「道徳的に優位」な立場から日本を攻撃することは大いに鬱憤を晴らすことができただろうし、日本を貶めるのは韓国の国益にも合致していたから間違いを止めるどころか、大統領自ら後押しすらした。そういう国民的娯楽としての反日、蔑日、卑日のシンボルとして誤った朝鮮人慰安婦イメージで日本を悪魔化し、屈服させようとしたから話がおかしくなった。
朴裕河氏は、ソウルの日本大使館前に建てられた少女像……は、挺対協のイメージする慰安婦像であり、実際の慰安婦たちの実像とは異なるものであるという。挺対協の主張に沿った証言だけが取捨選択され、1つのイメージに落とし込む過程で真実が隠蔽されてしまう。そのイメージに対し異論を唱えることが許されない韓国社会を、朴裕河氏は憂慮している。ここら辺はシンシアリー氏が時々指摘していたような気がする。
この像は挺対協のイメージする慰安婦だ。
「挺対協のイコン」であって、彼らの活動記念碑に過ぎない。
挺対協のイメージよりも真実に近い「帝国の慰安婦」の実態はどうだったのか。
そこを明らかにしないことには、何も前進しないだろう。
※『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は千田夏光の著作からの引用が多く、捏造資料からの引用は無意味だという主張があるかもしれない。それでも朴裕河氏は挺対協のイメージが実際の慰安婦とは異なっていることを説明しようとする姿勢は評価されて良いのではないかと思う。
※『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は、植民地化された民族が否応なく帝国主義への協力・貢献を求められる中での、慰安婦となった朝鮮人女性という切り口で描いている。自発的に慰安婦になった者、親に売られた者、家出少女、騙された者など、もともと経済的に貧しい女性たちが慰安婦になった。慰安婦を集め、管理、運用したのは慰安所経営者であった。慰安所経営者には日本人・朝鮮人の両方がいた。だから同胞をセックスワーカーに堕とし、金儲けをした朝鮮人の存在を無視することは欺瞞である。日本軍は「強制連行」という関与は行っていなかったが、健康管理、移送などでは間接的に関与していた。帝国の拡張(=戦争)遂行の上で慰安所を必要とした以上、日本は道義的な責任は免れないというのが朴裕河氏の主張。一方で慰安婦に補償を与える「法律」(軍人だとさまざまな補償がある)がない以上、日本に法的責任は問えないとも指摘してる。
※帝国主義を問題視しているが日本の帝国主義のみ強調している印象はある。特に他の帝国主義国家の公娼制度の説明が随分あとになって記述されるのは、やや作為的だとも思う。また、フェミニズム的視点は戦後随分手前になって一般化されたものであって、なんでも男女の対立軸で分析するのもどうかとは思う。よしながふみの男女逆転「大奥」のように、女性が世の中を取り仕切っていたならば「慰安夫」問題が発生した可能性はある。あまり男性を悪魔化するような議論は避けたいところだ。
※朴裕河氏はしばしば植民地支配への補償を記述するが、それこそ日韓基本条約で終わった話であり、1965年当時反共政策、冷戦構造があろうとなかろうと蒸し返すのは無理筋だと僕は思う。
まいったな……ちょっと整理しないと感想を書くことは難しいな。
その前に、最近こんな新聞(ハンギョレ)記事が掲載されて、一部で話題になっている。
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多くの日本人が、韓国には「反日」があるではないかと反論するだろうが、韓国の反日には日本の嫌韓のような他の民族に対する差別・蔑視・呪いの感覚はない。韓国人のほとんどが日本人の誠実さや勤勉さを尊敬しており、毎年ノーベル賞受賞者を出している日本の基礎科学の底力に驚嘆している。反日感情が噴出するのは、日本が過去に犯した植民地支配と侵略の歴史に対し、正しく謝罪する姿を見せないような印象を与えるときくらいだ。過去の歴史的経緯を見ても、韓国は日本を侵略して殖民支配したことも、言語や文化を奪おうとしたこともない。また、首都に大地震が発生した際、怪しそうな人に「15円50銭」と言わせて、正しく発音できなかった人を虐殺したこともない。
[記者手帳]日本の嫌韓と韓国の反日(ハンギョレ)
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朴槿恵の「加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」という演説は、日本では呪詛だと捉えられている。韓国ウォッチャーが列挙した「原爆は神の懲罰」「震災を祝います」などなどを、これが呪詛でないとハンギョレが言うのならば、かの国の呪詛とはどんなにおどろおどろしいものなのか想像もつかない。
朴裕河氏は著書の中で『韓国は「道徳的に優位」という正当性による「道徳的傲慢」を楽しんできた。「被害者」に対しては疑問を提起しない』。『傲慢は、想像力に乏しい。そしてそのような傲慢と糾弾は相手をかえって萎縮させる。そういった道徳的志向性が、相手の屈服自体を目指す支配欲望のねじれた形になったこともしばしばあった」と指摘している。韓国メディアによる日本蔑視、呪詛の記事を読んでいると、朴裕河氏の指摘のように、韓国人は道徳的傲慢をいまも娯楽としているのだなと感じる。
朴裕河氏は、慰安婦とは「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」であるというイメージは誤りであると指摘している。慰安婦を必要としたのは日本軍であれど、実際に慰安婦を集め、管理し、客を取らせていたのは慰安所の経営者たちである。劣悪な客のとらせ方をした、殴るなどの暴力を振るっていたのは慰安所の経営者たちであるとしている。軍が女性狩りをしたという吉田清治の著書は嘘であることはすでに明らかになっており、二十万人の少女が連行という主張も、挺対協が初期に女子挺身隊と慰安婦を混同していたからだ、と指摘している。
彼女は慰安婦とは「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」という挺対協が作り上げたイメージは誤りであり、それを訂正し、韓国国内を含め広報してこなかったことが問題だとしている。
僕が思うに、この問題を日本人の立場では韓国政府、挺対協、そして一般の韓国人がこの誤ったイメージを現在も世界中に撒き散らしており、韓国人の主張する慰安婦イメージは誤りである以上、韓国の主張は受け入れることができない。日本人からすれば挺対協のイメージを受け入れることは冤罪で死刑台にあがるようなことだ。だから慰安婦問題に日本人は強く反発する。韓国人は日本人を悪魔化しすぎた。ハンギョレ新聞の記者には理解できないのだろうが、日本人の嫌韓は道徳的云々は一切関係ない。日本人を悪魔化する韓国人が嫌いである、こっちに来るなという反発だ。
慰安婦問題は「軍人に性奴隷にされた女性」というショッキングな内容だから、韓国の活動家らは道徳的・宗教的・人権意識の高い欧米のリベラルとは連帯しやすかっただろう。そして大国が好きな韓国人の感性からすれば、欧米の列強とつるんで「道徳的に優位」な立場から日本を攻撃することは大いに鬱憤を晴らすことができただろうし、日本を貶めるのは韓国の国益にも合致していたから間違いを止めるどころか、大統領自ら後押しすらした。そういう国民的娯楽としての反日、蔑日、卑日のシンボルとして誤った朝鮮人慰安婦イメージで日本を悪魔化し、屈服させようとしたから話がおかしくなった。
朴裕河氏は、ソウルの日本大使館前に建てられた少女像……は、挺対協のイメージする慰安婦像であり、実際の慰安婦たちの実像とは異なるものであるという。挺対協の主張に沿った証言だけが取捨選択され、1つのイメージに落とし込む過程で真実が隠蔽されてしまう。そのイメージに対し異論を唱えることが許されない韓国社会を、朴裕河氏は憂慮している。ここら辺はシンシアリー氏が時々指摘していたような気がする。
この像は挺対協のイメージする慰安婦だ。
「挺対協のイコン」であって、彼らの活動記念碑に過ぎない。
挺対協のイメージよりも真実に近い「帝国の慰安婦」の実態はどうだったのか。
そこを明らかにしないことには、何も前進しないだろう。
※『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は千田夏光の著作からの引用が多く、捏造資料からの引用は無意味だという主張があるかもしれない。それでも朴裕河氏は挺対協のイメージが実際の慰安婦とは異なっていることを説明しようとする姿勢は評価されて良いのではないかと思う。
※『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は、植民地化された民族が否応なく帝国主義への協力・貢献を求められる中での、慰安婦となった朝鮮人女性という切り口で描いている。自発的に慰安婦になった者、親に売られた者、家出少女、騙された者など、もともと経済的に貧しい女性たちが慰安婦になった。慰安婦を集め、管理、運用したのは慰安所経営者であった。慰安所経営者には日本人・朝鮮人の両方がいた。だから同胞をセックスワーカーに堕とし、金儲けをした朝鮮人の存在を無視することは欺瞞である。日本軍は「強制連行」という関与は行っていなかったが、健康管理、移送などでは間接的に関与していた。帝国の拡張(=戦争)遂行の上で慰安所を必要とした以上、日本は道義的な責任は免れないというのが朴裕河氏の主張。一方で慰安婦に補償を与える「法律」(軍人だとさまざまな補償がある)がない以上、日本に法的責任は問えないとも指摘してる。
※帝国主義を問題視しているが日本の帝国主義のみ強調している印象はある。特に他の帝国主義国家の公娼制度の説明が随分あとになって記述されるのは、やや作為的だとも思う。また、フェミニズム的視点は戦後随分手前になって一般化されたものであって、なんでも男女の対立軸で分析するのもどうかとは思う。よしながふみの男女逆転「大奥」のように、女性が世の中を取り仕切っていたならば「慰安夫」問題が発生した可能性はある。あまり男性を悪魔化するような議論は避けたいところだ。
※朴裕河氏はしばしば植民地支配への補償を記述するが、それこそ日韓基本条約で終わった話であり、1965年当時反共政策、冷戦構造があろうとなかろうと蒸し返すのは無理筋だと僕は思う。
『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』を読む前に
僕は朝日新聞を信用していない。
デマと捏造をちょくちょく流す問題メディアだと思っている。
風評被害?営業妨害?
僕は「サンゴ汚したK・Yってだれだ」(朝日新聞珊瑚記事捏造事件)と、最近だと「吉田調書事件」をリアルタイムで目撃したからさ。ああいう嘘記事を書いてしれっとしているメディアを誰が信用できようか。自分たちの「プロダクト」に責任を持たず、虚報、誤報だという訴えに対し誠実に向き合わない体質の企業は本来は社会から排除されるべきなのに、まだ生き残っているのか、と半ば呆れている。
その朝日新聞が関係しているハフィントンポストも、これもまたある種独特のバイアスのかかった気持ち悪さがあって、あまり触らないようにしていた。あの朝日新聞が絡んでいるのだから、とんでもない「角度」をつけられていることもあるだろうから。
たまたま。
本当にたまたま、朴 裕河(パク・ユハ)世宗大学教授の記事を読んでしまった。
これがなかなか興味深い。
彼女は現在著書「帝国の慰安婦」に関して名誉毀損で訴えられている。
「それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由」の中で、彼女はこう書いている。
==========
言ってみれば同様に戦争に動員されたのに、慰安婦のための法は存在しませんでした。(帝国)国家は男性を戦争に動員し、男性のための「法」は準備しましたが、女性のための法を作らなかったのです。そういう意味では慰安婦問題で日本の補償と謝罪は必要ですが、それを問うための法自体が存在しない事実を見過ごすことはできません。もちろんこれは、近代国家のシステム自体が男性中心だったからです。
したがって、日本に対し「法的な責任」を問いたくても、その根拠となる「法」自体が存在しないというのが私の考えです。「法的責任」を問うには、まずそこに返って議論しなければなりません。その意味でこの問題は、韓国が要求する問題というより、むしろ日本が主体的に考えるべき問題です。
同時に、「法」という概念がそもそも国家システムを支えるものだけに、国家を代表する「法」にこだわる発想が、倫理的な解決にどれほど役立つのかも議論されるべきでしょう。「法」は、時に気持ちがこもることもありますが、この問題をめぐる「法律論争」が、おおむね謝罪の気持ちを持っていた90年代の日本国民を完全に無視したことも念頭に置くべきです。国家と国民と謝罪の関係についても問わなければなりません。それは「1965年に補償は終わった」と主張する日本政府や、「個人の請求権が残っている」と主張する韓国政府がともに再考する問題でもあります。
韓国が主張してきた「法的責任」要求の問題の一つは、90年代初めに慰安婦問題の本質を「少女の強制連行」と考えていたときに提起された主張だという点です。その後20年余りの間、慰安婦問題について新たな知識が多数生じたにもかかわらず、最初の要求が全く変わっていないことへの説明も必要です。
新たに明らかになった事実とは、問題を提起した韓国の支援団体が、挺身隊と慰安婦を勘違いしていたこと、業者が軍隊と慰安婦を媒介したこと、村山談話が実は、自民党の戦後処理についての思考につながっていたこと、韓国には責任回避の「小細工」としか理解されなかった「アジア女性基金」が、実は河野談話と村山談話の精神を受け継いだものだったこと、その基金から「償い金」を受け取った元慰安婦が60人もいること、日韓国交正常化の時、日本は個人への賠償を残しておこうと提案したのに、韓国政府が代表して受け取ってしまったことなどです。もちろん、これらすべてを考慮しても、女性たちに「地獄」を経験させた責任が日本帝国にあることは言うまでもありません。問題は、どのような形で謝罪と補償をすれば、これらすべての事項を念頭に置きつつ、両国民の理解と合意を得られるかという部分です。これまでの主張や拒否は、いずれもこの部分への注意を払っていませんでした。
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この問題を韓国内で議論するために、帝国主義とジェンダー(?)を持ち出さざるを得なかったのだろうな、と推測しつつ、彼女ですら韓国人的な情緒・思考から逃れることはできないのだろうという部分を差っ引いて、できる限り綺麗に内容をクリーニングしたら有益な議論が見つけられるんじゃないか……。そう期待して本を買ってみた。
==========
韓国に純真無垢な少女像を定着させたのは、韓国の慰安婦運動を率いてきた支援団体です。大事なのは20年以上経ち、新たに判明した事実が、少しずつ運動と展示に反映されながら、そうした認識の変化がメディアで公式には明らかにならなかったことです。
(中略)
にもかかわらず、そうした状況はきちんと認識されず、韓国の運動は世界へと領域を広げ、1億人署名運動、記念碑建立、韓国政府の閣僚や大統領が世界に発信した日本批判によって拡散しています。問題は韓国の広報専門家、サイバー外交使節団、歌手、女性部ホームページまで巻き込んだ活動が、必ずしも正確な情報のみに依拠していないという点です。
(中略)
2014年1月にフランスで開かれ、日韓間に摩擦を生んだアングレームの漫画展は、そのような日韓間の現状を端的に示した出来事でした。
韓国は日本の反発を、ただ謝罪意識がないからだとしか思いませんでした(実際にそういう考えの人はいなくはないようですが)。しかし反発の根源は、慰安婦についての表現に、事実とかけ離れたものがあったからです。にもかかわらず、アングレームの展示はソウルの中心部で展示され、多くの学生らに観覧されて日本に対する敵愾心を育てています。
==========
これから本を読み進めていく上で、僕は朴 裕河氏を「話のわかる韓国人がいるじゃん」と思うことはないだろう。
おそらく真相は「日本軍に強制連行された純真無垢な20万人の少女」と「すべて金目当ての売春婦だ」という主張の間ぐらいにあるのだろう。
それを修正するチャンスはあったのにしなかったのは、日本にうっぷんばらしをしたい韓国人の心理、ジャパンディスカウントと国是としていた韓国政府の思惑、挺対協に絡む北朝鮮と中共の思惑、日本国内のリベラルと名乗る反体制・コミュニスト・一部の外国人らがうごめいていたこともあるのだろう。朴氏の指摘する「反発の根源は、慰安婦についての表現に、事実とかけ離れたものがあったから」というのはその通りで、日本の右派が態度を硬化させているのには韓国側の主張に度外れた嘘と誇張があり、それが日本に大変な不利益をもたらしていると考えているからだ。「日本軍に強制連行された純真無垢な20万人の少女」しかも「彼女らは性奴隷にされ、虐殺されて命を落とした」と韓国人が喧伝するほど、日本からは韓国人は嘘つきだと言わざるを得なくなる。そもそも「慰安婦問題」になんの手を打つべきなのか、という議論にならず、両国の世論に板ばさみになった政府は身動きが取れなくなる。
朴 裕河氏はセウォル号の悲劇について「韓国社会の価値観が一つに集約された結果として引き起こされた、あまりにも脆弱な社会構造を見ました。そしてこの問題を巡っても、韓国社会は分裂と混沌の様相を見せています。慰安婦問題をめぐる状況がセウォル号の悲劇をめぐる状況と無縁ではないと考える」と述べている。
僕はあの事件を見ながら、無責任な社会運営、数字がコロコロ変わる不正確な情報伝達(発表)、冷静さに欠け扇動されやすい人々、分裂する世論、被害者が王様になってしまう歪な思考、「救助が早く進むと思った」という善意から発した「船内からの偽メール」(善と考える目的遂行のためには嘘は許容されるという考え方、行動様式)、テレビの前に立つ虚言癖の女、責任者に水をぶっかけ叫ぶ人々などなど、「This is Korea」に絶句した。たぶん、韓国社会は他の世界には類のない、思考と行動に支配された人々の暮らしている場所なのだろう。
「帝国の慰安婦」というタイトルを見たとき、僕は直感的に思った。
彼女は帝国=帝国主義=大日本帝国という図式で語っているのだろうけれど、もともと女性を大切にしない腐れて崩れ落ちた大韓帝国という問題、責任は語っていないのだろうなと。
どちらにしても、まずは読んでみてからだ。
デマと捏造をちょくちょく流す問題メディアだと思っている。
風評被害?営業妨害?
僕は「サンゴ汚したK・Yってだれだ」(朝日新聞珊瑚記事捏造事件)と、最近だと「吉田調書事件」をリアルタイムで目撃したからさ。ああいう嘘記事を書いてしれっとしているメディアを誰が信用できようか。自分たちの「プロダクト」に責任を持たず、虚報、誤報だという訴えに対し誠実に向き合わない体質の企業は本来は社会から排除されるべきなのに、まだ生き残っているのか、と半ば呆れている。
その朝日新聞が関係しているハフィントンポストも、これもまたある種独特のバイアスのかかった気持ち悪さがあって、あまり触らないようにしていた。あの朝日新聞が絡んでいるのだから、とんでもない「角度」をつけられていることもあるだろうから。
たまたま。
本当にたまたま、朴 裕河(パク・ユハ)世宗大学教授の記事を読んでしまった。
これがなかなか興味深い。
彼女は現在著書「帝国の慰安婦」に関して名誉毀損で訴えられている。
「それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由」の中で、彼女はこう書いている。
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言ってみれば同様に戦争に動員されたのに、慰安婦のための法は存在しませんでした。(帝国)国家は男性を戦争に動員し、男性のための「法」は準備しましたが、女性のための法を作らなかったのです。そういう意味では慰安婦問題で日本の補償と謝罪は必要ですが、それを問うための法自体が存在しない事実を見過ごすことはできません。もちろんこれは、近代国家のシステム自体が男性中心だったからです。
したがって、日本に対し「法的な責任」を問いたくても、その根拠となる「法」自体が存在しないというのが私の考えです。「法的責任」を問うには、まずそこに返って議論しなければなりません。その意味でこの問題は、韓国が要求する問題というより、むしろ日本が主体的に考えるべき問題です。
同時に、「法」という概念がそもそも国家システムを支えるものだけに、国家を代表する「法」にこだわる発想が、倫理的な解決にどれほど役立つのかも議論されるべきでしょう。「法」は、時に気持ちがこもることもありますが、この問題をめぐる「法律論争」が、おおむね謝罪の気持ちを持っていた90年代の日本国民を完全に無視したことも念頭に置くべきです。国家と国民と謝罪の関係についても問わなければなりません。それは「1965年に補償は終わった」と主張する日本政府や、「個人の請求権が残っている」と主張する韓国政府がともに再考する問題でもあります。
韓国が主張してきた「法的責任」要求の問題の一つは、90年代初めに慰安婦問題の本質を「少女の強制連行」と考えていたときに提起された主張だという点です。その後20年余りの間、慰安婦問題について新たな知識が多数生じたにもかかわらず、最初の要求が全く変わっていないことへの説明も必要です。
新たに明らかになった事実とは、問題を提起した韓国の支援団体が、挺身隊と慰安婦を勘違いしていたこと、業者が軍隊と慰安婦を媒介したこと、村山談話が実は、自民党の戦後処理についての思考につながっていたこと、韓国には責任回避の「小細工」としか理解されなかった「アジア女性基金」が、実は河野談話と村山談話の精神を受け継いだものだったこと、その基金から「償い金」を受け取った元慰安婦が60人もいること、日韓国交正常化の時、日本は個人への賠償を残しておこうと提案したのに、韓国政府が代表して受け取ってしまったことなどです。もちろん、これらすべてを考慮しても、女性たちに「地獄」を経験させた責任が日本帝国にあることは言うまでもありません。問題は、どのような形で謝罪と補償をすれば、これらすべての事項を念頭に置きつつ、両国民の理解と合意を得られるかという部分です。これまでの主張や拒否は、いずれもこの部分への注意を払っていませんでした。
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この問題を韓国内で議論するために、帝国主義とジェンダー(?)を持ち出さざるを得なかったのだろうな、と推測しつつ、彼女ですら韓国人的な情緒・思考から逃れることはできないのだろうという部分を差っ引いて、できる限り綺麗に内容をクリーニングしたら有益な議論が見つけられるんじゃないか……。そう期待して本を買ってみた。
==========
韓国に純真無垢な少女像を定着させたのは、韓国の慰安婦運動を率いてきた支援団体です。大事なのは20年以上経ち、新たに判明した事実が、少しずつ運動と展示に反映されながら、そうした認識の変化がメディアで公式には明らかにならなかったことです。
(中略)
にもかかわらず、そうした状況はきちんと認識されず、韓国の運動は世界へと領域を広げ、1億人署名運動、記念碑建立、韓国政府の閣僚や大統領が世界に発信した日本批判によって拡散しています。問題は韓国の広報専門家、サイバー外交使節団、歌手、女性部ホームページまで巻き込んだ活動が、必ずしも正確な情報のみに依拠していないという点です。
(中略)
2014年1月にフランスで開かれ、日韓間に摩擦を生んだアングレームの漫画展は、そのような日韓間の現状を端的に示した出来事でした。
韓国は日本の反発を、ただ謝罪意識がないからだとしか思いませんでした(実際にそういう考えの人はいなくはないようですが)。しかし反発の根源は、慰安婦についての表現に、事実とかけ離れたものがあったからです。にもかかわらず、アングレームの展示はソウルの中心部で展示され、多くの学生らに観覧されて日本に対する敵愾心を育てています。
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これから本を読み進めていく上で、僕は朴 裕河氏を「話のわかる韓国人がいるじゃん」と思うことはないだろう。
おそらく真相は「日本軍に強制連行された純真無垢な20万人の少女」と「すべて金目当ての売春婦だ」という主張の間ぐらいにあるのだろう。
それを修正するチャンスはあったのにしなかったのは、日本にうっぷんばらしをしたい韓国人の心理、ジャパンディスカウントと国是としていた韓国政府の思惑、挺対協に絡む北朝鮮と中共の思惑、日本国内のリベラルと名乗る反体制・コミュニスト・一部の外国人らがうごめいていたこともあるのだろう。朴氏の指摘する「反発の根源は、慰安婦についての表現に、事実とかけ離れたものがあったから」というのはその通りで、日本の右派が態度を硬化させているのには韓国側の主張に度外れた嘘と誇張があり、それが日本に大変な不利益をもたらしていると考えているからだ。「日本軍に強制連行された純真無垢な20万人の少女」しかも「彼女らは性奴隷にされ、虐殺されて命を落とした」と韓国人が喧伝するほど、日本からは韓国人は嘘つきだと言わざるを得なくなる。そもそも「慰安婦問題」になんの手を打つべきなのか、という議論にならず、両国の世論に板ばさみになった政府は身動きが取れなくなる。
朴 裕河氏はセウォル号の悲劇について「韓国社会の価値観が一つに集約された結果として引き起こされた、あまりにも脆弱な社会構造を見ました。そしてこの問題を巡っても、韓国社会は分裂と混沌の様相を見せています。慰安婦問題をめぐる状況がセウォル号の悲劇をめぐる状況と無縁ではないと考える」と述べている。
僕はあの事件を見ながら、無責任な社会運営、数字がコロコロ変わる不正確な情報伝達(発表)、冷静さに欠け扇動されやすい人々、分裂する世論、被害者が王様になってしまう歪な思考、「救助が早く進むと思った」という善意から発した「船内からの偽メール」(善と考える目的遂行のためには嘘は許容されるという考え方、行動様式)、テレビの前に立つ虚言癖の女、責任者に水をぶっかけ叫ぶ人々などなど、「This is Korea」に絶句した。たぶん、韓国社会は他の世界には類のない、思考と行動に支配された人々の暮らしている場所なのだろう。
「帝国の慰安婦」というタイトルを見たとき、僕は直感的に思った。
彼女は帝国=帝国主義=大日本帝国という図式で語っているのだろうけれど、もともと女性を大切にしない腐れて崩れ落ちた大韓帝国という問題、責任は語っていないのだろうなと。
どちらにしても、まずは読んでみてからだ。
吉田修一「怒り」(上下)を読んでみた
ざっと流し読みしただけなんで、粗粗な感想など書いておこうかな。
来月公開映画の原作で、ウチの界隈で話題になっているのはやっぱりこれだ。
妻夫木聡と綾野剛の濃厚ラブシーン(w
見に行きたいけれど、男一人で行ったらゲイばれ。
男二人で行ってもゲイばれ。
なんつーアウティングな映画なんだとモヤモヤしてる。
ゲイなんで、妻夫木聡が演じる「優馬」に関連する部分は興味深く読んだ。
ゲイシーンをなかなかうまく描いているなあと思う。
ゲイパーリィしかり、ハッテン場しかり。
優馬はルックスが良く、身体も良く(映画の中の妻夫木くんは、ガタイでアピれる身体ではないと思う)、友達も多く、そして一流企業の会社員という華やかなゲイ生活を送っている。32歳になった彼は、恵まれているようで、でも虚しさを抱いて生きている。
設定はうまい。
しかも長らくゲイの寝てみたい男No.1に君臨していた妻夫木聡だ。
彼のゲイセックスシーンが見れるというだけで、ありがてぇ、ありがてぇと手を合わせたくなるよ。
だけど、僕の中では妻夫木聡ってこういうイメージなんだよな。
10代20代の頃は、若くて、可愛らしくて、みんなのアイドルな「魔性のウケ」。
その彼が20代後半も過ぎて、気付くとモテなくなり、仕方なく今はタチに転向している……みたいな裏設定があったらパーフェクトだった。いま、このタイミングで妻夫木聡を起用するには、この設定が必須だったんだけどなー。
話が大脱線した。
Amazonのレビューを眺めていると、「信用・信頼する」ことの難しさを書き込む人が多い一方で、犯人の殺人動機がわからないという書き込みを散見する。
僕はこんなふうに理解したんだ。
斜め読みではあるけれど、この小説の中には「弱者が踏みにじられている」あるいは巷で「差別されている、偏見の目で見られている」というシーンが少なくとも4箇所出てくる。
1つ目はとってもわかりやすいもので、沖縄駐留米軍基地反対運動を続けている知念辰哉の父。
これは割愛する。
2つ目は、妻夫木聡が演じる優馬に、彼のことをよく理解しているはずの友人であり兄嫁の友香のセリフ。
「優馬くんってさ、竜太(注:優馬の学生時代の友達。カミングアウトはしていない)くんたちの前では必死にノンケぶろうとするよね」
「……優馬って、普段は、自分はゲイだ、ゲイで何が悪い?みたいな顔をしてるくせに、竜太くんたちに知られるのだけは怖いんでしょ?ほんとはぜんぜん自信なんてないんでしょ?」
「……優馬ってさ、実はゲイを低く見ていない?だから一番大切な仲間の前では必死に隠そうとするんじゃないの?」
これはね、本当に難しいところなんだ。
直後に直人(綾野剛)が「友香ちゃんは分かってくれる側の人間だからそう言ってくれんだよ。分かる人は言わなくても分かってくれる。分からない人はいくら説明しても分かってくれない」と言う。
「分かる人」を「信用してくれる人」「信じてくれる人」に置き換えるとニュアンスが伝わるかな。
「信用してくれる人」にとって、信用するポイントは「ゲイ」じゃないはずで、ゲイはただの属性。
ゲイを高く見る、低く見るというのは、ゲイ本人の自尊心の問題にすぎない。しかも「ゲイである」という属性によって高い自尊心を持つのは、ちょっとレアケースなのだと思う。僕らのほとんどはそれで商売しているわけじゃないので。
だけど「分からない人」にとってはゲイという属性は「信用」を落とすポイントでしかない。どんなに道理を説いたとしても、その壁は越えられない。だったらゲイということを表に出さないことがゲイにとっても、相手にとっても妥当なのだと僕は思う。
自信がない、というのはある面事実。
ゲイという属性のため、相手の無理解を誘うことが怖い。
そもそもその相手が「分かる人、分かってくれる人」かどうかは、外側からはなかなか分からないよね。
優馬をよく知っている友香でも、そこのニュアンスは分かっていないのだろうな、と思う。
裏目に出た時の悲惨さを知っているから、ゲイはなかなかカミングアウトしない。
そこに人間関係の根源的な脆さはあるだろうね。
「ゲイで何が悪い?」と開き直るよりは、「ああ、そんなこと?」程度に流してくれる世の中が来ることをほとんどのゲイは願っていると思う。
それから、カミングアウトは恋愛の告白と同じようなものなのだよ。
自信が持てないなんて、当たり前じゃないですか。
3つ目は、犯人山神一也が最初に殺人を犯した時の、派遣会社の社員の態度。
担当者を信じて現場へ向かったら、その情報は間違っていた。会社から軽んじられて、怒りが募っていたところで、情けをかけてくれた女性被害者を衝動的に殺してしまう。
4つ目は、知念辰哉の「こういうバックパッカーは、結局、親のすね齧ってる場合が多いんだよ」というセリフ。
「なんていうか、居場所のない奴ってさ、目が野良犬みたいになるじゃん。あいつなんかがまさにそうだろ?帰る所ないと、誰でもああいう目になるんだよ、きっと」
これは辰哉のみの考えなのだろうか?
辰哉の父親が、そういうことを言っていたのではないだろうか?
沖縄は、本土から流れ着いてきた者に対し、そういう感情を抱いているんじゃないだろうか?(沖縄に対し、のんきな南国イメージを押し付けているのは本土人のエゴだ)
所詮子供のセリフだからなんとも言えないが、現実世界でも弱い立場の者が更に弱い立場の者を蔑視しているのかもしれない。
だから、美しい南国の青い海をバックに佇む廃墟(山神一也の人生をメタファしてるのかな?)の白い壁の裏には、「怒」という文字があり、自分よりも更に弱い者への呪詛と哄笑が書かれていた。山神一也の「怒り」とは、底辺で生きることを余儀なくされた者の呪詛と爆発だったんじゃないかと思うのだ。
知念辰哉を除き、登場する男たちは、優しいが、総じて弱い。
刑事ですらも、弱々しい(むしろ、気持ち悪いと言った方が良いかも)。
知念辰哉のその後を描いた作品を読んでみたい。
で、冒頭に戻るわけで。
見に行きたいけれど、男一人で行ったらゲイばれ。
男二人で行ってもゲイばれ。
どうしようかな。
来月公開映画の原作で、ウチの界隈で話題になっているのはやっぱりこれだ。
妻夫木聡と綾野剛の濃厚ラブシーン(w
見に行きたいけれど、男一人で行ったらゲイばれ。
男二人で行ってもゲイばれ。
なんつーアウティングな映画なんだとモヤモヤしてる。
ゲイなんで、妻夫木聡が演じる「優馬」に関連する部分は興味深く読んだ。
ゲイシーンをなかなかうまく描いているなあと思う。
ゲイパーリィしかり、ハッテン場しかり。
優馬はルックスが良く、身体も良く(映画の中の妻夫木くんは、ガタイでアピれる身体ではないと思う)、友達も多く、そして一流企業の会社員という華やかなゲイ生活を送っている。32歳になった彼は、恵まれているようで、でも虚しさを抱いて生きている。
設定はうまい。
しかも長らくゲイの寝てみたい男No.1に君臨していた妻夫木聡だ。
彼のゲイセックスシーンが見れるというだけで、ありがてぇ、ありがてぇと手を合わせたくなるよ。
だけど、僕の中では妻夫木聡ってこういうイメージなんだよな。
10代20代の頃は、若くて、可愛らしくて、みんなのアイドルな「魔性のウケ」。
その彼が20代後半も過ぎて、気付くとモテなくなり、仕方なく今はタチに転向している……みたいな裏設定があったらパーフェクトだった。いま、このタイミングで妻夫木聡を起用するには、この設定が必須だったんだけどなー。
話が大脱線した。
Amazonのレビューを眺めていると、「信用・信頼する」ことの難しさを書き込む人が多い一方で、犯人の殺人動機がわからないという書き込みを散見する。
僕はこんなふうに理解したんだ。
斜め読みではあるけれど、この小説の中には「弱者が踏みにじられている」あるいは巷で「差別されている、偏見の目で見られている」というシーンが少なくとも4箇所出てくる。
1つ目はとってもわかりやすいもので、沖縄駐留米軍基地反対運動を続けている知念辰哉の父。
これは割愛する。
2つ目は、妻夫木聡が演じる優馬に、彼のことをよく理解しているはずの友人であり兄嫁の友香のセリフ。
「優馬くんってさ、竜太(注:優馬の学生時代の友達。カミングアウトはしていない)くんたちの前では必死にノンケぶろうとするよね」
「……優馬って、普段は、自分はゲイだ、ゲイで何が悪い?みたいな顔をしてるくせに、竜太くんたちに知られるのだけは怖いんでしょ?ほんとはぜんぜん自信なんてないんでしょ?」
「……優馬ってさ、実はゲイを低く見ていない?だから一番大切な仲間の前では必死に隠そうとするんじゃないの?」
これはね、本当に難しいところなんだ。
直後に直人(綾野剛)が「友香ちゃんは分かってくれる側の人間だからそう言ってくれんだよ。分かる人は言わなくても分かってくれる。分からない人はいくら説明しても分かってくれない」と言う。
「分かる人」を「信用してくれる人」「信じてくれる人」に置き換えるとニュアンスが伝わるかな。
「信用してくれる人」にとって、信用するポイントは「ゲイ」じゃないはずで、ゲイはただの属性。
ゲイを高く見る、低く見るというのは、ゲイ本人の自尊心の問題にすぎない。しかも「ゲイである」という属性によって高い自尊心を持つのは、ちょっとレアケースなのだと思う。僕らのほとんどはそれで商売しているわけじゃないので。
だけど「分からない人」にとってはゲイという属性は「信用」を落とすポイントでしかない。どんなに道理を説いたとしても、その壁は越えられない。だったらゲイということを表に出さないことがゲイにとっても、相手にとっても妥当なのだと僕は思う。
自信がない、というのはある面事実。
ゲイという属性のため、相手の無理解を誘うことが怖い。
そもそもその相手が「分かる人、分かってくれる人」かどうかは、外側からはなかなか分からないよね。
優馬をよく知っている友香でも、そこのニュアンスは分かっていないのだろうな、と思う。
裏目に出た時の悲惨さを知っているから、ゲイはなかなかカミングアウトしない。
そこに人間関係の根源的な脆さはあるだろうね。
「ゲイで何が悪い?」と開き直るよりは、「ああ、そんなこと?」程度に流してくれる世の中が来ることをほとんどのゲイは願っていると思う。
それから、カミングアウトは恋愛の告白と同じようなものなのだよ。
自信が持てないなんて、当たり前じゃないですか。
3つ目は、犯人山神一也が最初に殺人を犯した時の、派遣会社の社員の態度。
担当者を信じて現場へ向かったら、その情報は間違っていた。会社から軽んじられて、怒りが募っていたところで、情けをかけてくれた女性被害者を衝動的に殺してしまう。
4つ目は、知念辰哉の「こういうバックパッカーは、結局、親のすね齧ってる場合が多いんだよ」というセリフ。
「なんていうか、居場所のない奴ってさ、目が野良犬みたいになるじゃん。あいつなんかがまさにそうだろ?帰る所ないと、誰でもああいう目になるんだよ、きっと」
これは辰哉のみの考えなのだろうか?
辰哉の父親が、そういうことを言っていたのではないだろうか?
沖縄は、本土から流れ着いてきた者に対し、そういう感情を抱いているんじゃないだろうか?(沖縄に対し、のんきな南国イメージを押し付けているのは本土人のエゴだ)
所詮子供のセリフだからなんとも言えないが、現実世界でも弱い立場の者が更に弱い立場の者を蔑視しているのかもしれない。
だから、美しい南国の青い海をバックに佇む廃墟(山神一也の人生をメタファしてるのかな?)の白い壁の裏には、「怒」という文字があり、自分よりも更に弱い者への呪詛と哄笑が書かれていた。山神一也の「怒り」とは、底辺で生きることを余儀なくされた者の呪詛と爆発だったんじゃないかと思うのだ。
知念辰哉を除き、登場する男たちは、優しいが、総じて弱い。
刑事ですらも、弱々しい(むしろ、気持ち悪いと言った方が良いかも)。
知念辰哉のその後を描いた作品を読んでみたい。
で、冒頭に戻るわけで。
見に行きたいけれど、男一人で行ったらゲイばれ。
男二人で行ってもゲイばれ。
どうしようかな。
テラフォーマーズは朝から読めない
僕もそれなりに忙しい生活を送っているので、新しいものにはなかなか手を出さない。
というか、時間がないのだよ。
で、本屋を徘徊していて、なんかSFっぽい漫画が並んでいるな~と認識していたのだけど。手を出さないこと数年(?)
ある日、この表紙を見て迷わず参戦!!
金髪!
スーパー大胸筋、乳首装着!
8ブロックに割れた腹筋!
僕の大好物ばかりですやん!!!
ということで、大人買い。
そして、そのあとめちゃめちゃ苦戦。
だってさー、この漫画ったら
ゴキブリ人間 vs 昆虫改造人間 in 火星
なわけで。
「じょうじ」って呟くゴキブリに引きちぎられたりするシーンが続々登場するわけで。猿の惑星は進化した猿だけど、こちらの敵は進化したゴキブリ人間というわけで、気持ち悪さは数段階上を行くわけ。
だけど、僕は期待していたのだよ。
この兄ちゃんのステキな脱ぎが来る日を……ってなかなか来ない。
ちょっと、この裸のイケメンいつになったら出て来るのよっ!
イライラしながら10巻まで進んで、やっと出たわね (^^)/
そしてこのオトコは12巻で、木っ端みじんだよっ!
どういうこと!?
あんたの仕事は終わってないわ!
もっと脱ぎなさいよっ!!
まあとにかく登場人物がばんばん出てきて、顔なじみになる前にばんばん死んでゆくからもう何が何だかわけ分からん。ゴキブリ人間は山のようにいるけど、ほとんどかき分けはないから置いておいて。
しかも当初はゴキブリ人間 vs 昆虫改造人間 in 火星だった物語が、いまじゃ人類の裏切り者の中国 vs 日・米・ロシア・欧州という地域間抗争みたいになってしまってさらにわけわかんない状態に。
ていうか、脱ぎ要員のジョセフはどこいったの~! (`Д´)ゴゴゴ
というわけで、朝、本屋に立ち寄って13巻を買ったんですけどね。
さすがに朝っぱらの通勤電車でゴキブリ人間との戦いなんて開けないし。
昼休みにざっと読んだんだけど、オレのジョセフが……(ノД`)・゜・。
というか、時間がないのだよ。
で、本屋を徘徊していて、なんかSFっぽい漫画が並んでいるな~と認識していたのだけど。手を出さないこと数年(?)
ある日、この表紙を見て迷わず参戦!!
金髪!
スーパー大胸筋、乳首装着!
8ブロックに割れた腹筋!
僕の大好物ばかりですやん!!!
ということで、大人買い。
そして、そのあとめちゃめちゃ苦戦。
だってさー、この漫画ったら
ゴキブリ人間 vs 昆虫改造人間 in 火星
なわけで。
「じょうじ」って呟くゴキブリに引きちぎられたりするシーンが続々登場するわけで。猿の惑星は進化した猿だけど、こちらの敵は進化したゴキブリ人間というわけで、気持ち悪さは数段階上を行くわけ。
だけど、僕は期待していたのだよ。
この兄ちゃんのステキな脱ぎが来る日を……ってなかなか来ない。
ちょっと、この裸のイケメンいつになったら出て来るのよっ!
イライラしながら10巻まで進んで、やっと出たわね (^^)/
そしてこのオトコは12巻で、木っ端みじんだよっ!
どういうこと!?
あんたの仕事は終わってないわ!
もっと脱ぎなさいよっ!!
まあとにかく登場人物がばんばん出てきて、顔なじみになる前にばんばん死んでゆくからもう何が何だかわけ分からん。ゴキブリ人間は山のようにいるけど、ほとんどかき分けはないから置いておいて。
しかも当初はゴキブリ人間 vs 昆虫改造人間 in 火星だった物語が、いまじゃ人類の裏切り者の中国 vs 日・米・ロシア・欧州という地域間抗争みたいになってしまってさらにわけわかんない状態に。
ていうか、脱ぎ要員のジョセフはどこいったの~! (`Д´)ゴゴゴ
というわけで、朝、本屋に立ち寄って13巻を買ったんですけどね。
さすがに朝っぱらの通勤電車でゴキブリ人間との戦いなんて開けないし。
昼休みにざっと読んだんだけど、オレのジョセフが……(ノД`)・゜・。
ノラガミと会社
週末、やっとPCに向かって仕事する時間ができた。
ずっと寝かしていたネタを出してみようかと。
たまたま「会社」って言葉を弄んでいた時に、「ノラガミ」でおもしろいページに遭遇した。それは第7巻にある。夜ト神が恵比寿から貰った大金をビルの上からぶち撒いてしまい、「自分のお社を持つ」という長年の夢が叶わず、落ち込んで寝込んでいるシーンだ。夜ト神は、社を持たない無名の神である。
夜トはひよりから手作りのミニ社を貰い、喜びの涙を流す。
『夜ト…そんなにお社欲しいの?』
『…欲しいさ。ないなんて人から「要らない」って言われてんのと同じだ…』
『お社を頂くってのは光栄なことよ。
「ありがとう」とか「お願いします」とか人からの想いの証だから』
なるほどなあ。
僕らは日々「会社に行ってきます」と言って、家を出る。
「会社」という言葉を反対から読むと「社で会う」になる。もともとcompanyの翻訳語で、「会社」という用語に定着したのは明治に入ってからという。それまではいくつか翻訳語があったそうで、そのうちの一つが「社中」。有名な「亀山社中」のアレだ。いずれにしても「社」という漢字が入るってことが、僕の頭の片隅にずっとこびりついていた。
神様とお社に関係について、小福(正体は貧乏神)は語る。
『夜トちゃんみたいな無名な神様はね…人に忘れられたら消えてしまうの…』
『人の願いから生まれたのがあたし達だもの。その願いが途絶えた時、神様の役目もおしまい…要らなくなっちゃうわ』
『人って忘れちゃうからこういう形があるとあたし達は嬉しいのよね。思い出してもらえるから』
なるほどなあ。
これは神から見た「会社」の意味(定義?)になるなあと。
この場合の「神」を今風の言葉に翻訳すると、例えば「ビジネスモデル」。
人の願いや想いから生まれたのがビジネスモデル(=神)であって、その神を忘れないように形をつくるのが「お社」で、そのお社での活動が「会社」(社で会う、社で神に会う)であり、そのお社で会うメンバーが「会社員」ということになる。会社員を神職だとしたら、会社の業績が悪い状態は、神が弱っているのか、神職達が神の望みではないことを行っているから発生するのだろう。
そんなことを連想した時、ある経営者が「ただ頭がいいだけのヤツより、情熱のあるヤツを採用したい」と言っていたことが腑に落ちた。採用面接の時、会社の中の人は「僕らと同じ神様を信じて、お社を盛り上げていける人かい?」という視点で面接しているよ、確かに。だから、就活中の学生さんに限らず、会社の社風を調べていて風通しが良いとか、家庭的な雰囲気な会社だ、だけではなくて、その会社のコア(核、この際「神」と言ってもいいだろうね)はなにか、それを信じ切ってメンバーが活動できているか、という視点で観察してみると良いかもしれない。そして、自分もその神様を奉じて盛り上げてゆけるマインドを持てるかどうかよく検討すれば、入社後のミスマッチに苦しむことも減るかもしれないね。
そういう意味では、例えばソニーのような危機状態に陥っている企業も、SWOT分析していても仕方ないのかもしれない。分析は正しくても、そのお社にその「神」がいない、あるいは「神」が望んでいないことを強いても、たぶんそれは実現しないのだから。
グローバリズム全盛の時にこういう会社のとらえ方は時代錯誤かもしれないが、ノラガミを読んでいて腑に落ちた想いを書き留めておきたかった。
※「会社」の語源とは異なった、個人的なグルグルとした想いです。
ずっと寝かしていたネタを出してみようかと。
たまたま「会社」って言葉を弄んでいた時に、「ノラガミ」でおもしろいページに遭遇した。それは第7巻にある。夜ト神が恵比寿から貰った大金をビルの上からぶち撒いてしまい、「自分のお社を持つ」という長年の夢が叶わず、落ち込んで寝込んでいるシーンだ。夜ト神は、社を持たない無名の神である。
夜トはひよりから手作りのミニ社を貰い、喜びの涙を流す。
『夜ト…そんなにお社欲しいの?』
『…欲しいさ。ないなんて人から「要らない」って言われてんのと同じだ…』
『お社を頂くってのは光栄なことよ。
「ありがとう」とか「お願いします」とか人からの想いの証だから』
なるほどなあ。
僕らは日々「会社に行ってきます」と言って、家を出る。
「会社」という言葉を反対から読むと「社で会う」になる。もともとcompanyの翻訳語で、「会社」という用語に定着したのは明治に入ってからという。それまではいくつか翻訳語があったそうで、そのうちの一つが「社中」。有名な「亀山社中」のアレだ。いずれにしても「社」という漢字が入るってことが、僕の頭の片隅にずっとこびりついていた。
神様とお社に関係について、小福(正体は貧乏神)は語る。
『夜トちゃんみたいな無名な神様はね…人に忘れられたら消えてしまうの…』
『人の願いから生まれたのがあたし達だもの。その願いが途絶えた時、神様の役目もおしまい…要らなくなっちゃうわ』
『人って忘れちゃうからこういう形があるとあたし達は嬉しいのよね。思い出してもらえるから』
なるほどなあ。
これは神から見た「会社」の意味(定義?)になるなあと。
この場合の「神」を今風の言葉に翻訳すると、例えば「ビジネスモデル」。
人の願いや想いから生まれたのがビジネスモデル(=神)であって、その神を忘れないように形をつくるのが「お社」で、そのお社での活動が「会社」(社で会う、社で神に会う)であり、そのお社で会うメンバーが「会社員」ということになる。会社員を神職だとしたら、会社の業績が悪い状態は、神が弱っているのか、神職達が神の望みではないことを行っているから発生するのだろう。
そんなことを連想した時、ある経営者が「ただ頭がいいだけのヤツより、情熱のあるヤツを採用したい」と言っていたことが腑に落ちた。採用面接の時、会社の中の人は「僕らと同じ神様を信じて、お社を盛り上げていける人かい?」という視点で面接しているよ、確かに。だから、就活中の学生さんに限らず、会社の社風を調べていて風通しが良いとか、家庭的な雰囲気な会社だ、だけではなくて、その会社のコア(核、この際「神」と言ってもいいだろうね)はなにか、それを信じ切ってメンバーが活動できているか、という視点で観察してみると良いかもしれない。そして、自分もその神様を奉じて盛り上げてゆけるマインドを持てるかどうかよく検討すれば、入社後のミスマッチに苦しむことも減るかもしれないね。
そういう意味では、例えばソニーのような危機状態に陥っている企業も、SWOT分析していても仕方ないのかもしれない。分析は正しくても、そのお社にその「神」がいない、あるいは「神」が望んでいないことを強いても、たぶんそれは実現しないのだから。
グローバリズム全盛の時にこういう会社のとらえ方は時代錯誤かもしれないが、ノラガミを読んでいて腑に落ちた想いを書き留めておきたかった。
※「会社」の語源とは異なった、個人的なグルグルとした想いです。
神の雫にやられた件
晴れ。31.4℃/21.3℃/41%
帰宅途中に立ち寄った書店で、神の雫最新刊が平積みされているのに気づく。
コミックの帯がヘンだ。
神の雫の前にいったん休符をだと!?
まったく意味がわからないんですけど。。。。
最終刊の「神の雫編」を別連載するってアンタ……
これから100巻の大連載もOKってことですか?
十二使徒編から50年が過ぎ、関係者がすべてこの世を去ったころ、謎めいた手紙が見つかった……とかもアリですか???
ありえないでしょう〜 (^^;
毀誉褒貶ありながらもそれなりに読者をつかんでいたはずの神の雫。
最新刊が発売されてほぼ10日が経過するのに、amazonにレビューが上がってこない事態に。
今までついてきた読者もしらけちゃうよな〜。
今日一番の驚きでした。
帰宅途中に立ち寄った書店で、神の雫最新刊が平積みされているのに気づく。
コミックの帯がヘンだ。
神の雫の前にいったん休符をだと!?
まったく意味がわからないんですけど。。。。
最終刊の「神の雫編」を別連載するってアンタ……
これから100巻の大連載もOKってことですか?
十二使徒編から50年が過ぎ、関係者がすべてこの世を去ったころ、謎めいた手紙が見つかった……とかもアリですか???
ありえないでしょう〜 (^^;
毀誉褒貶ありながらもそれなりに読者をつかんでいたはずの神の雫。
最新刊が発売されてほぼ10日が経過するのに、amazonにレビューが上がってこない事態に。
今までついてきた読者もしらけちゃうよな〜。
今日一番の驚きでした。
乙男腐男子ガチホモこじらせてます
考えようによってはガチホモ∋腐男子∋乙男だから、全部入りってわけなんですが。
ガキの頃から少女マンガ好きが止められなくて、いまだ話題となってる少女マンガは結構フォローしていることをカミングアウト。(^^;
あー、例えば先日書いた月影ベイベはさておき。
「ちはやふる」だろ。
「3月のライオン」とか。
「アオハライド」もフォローしてるなあ。「ストロボ・エッジ」の方が良いかな。
「君に届け」は風早くん爽やかすぎで。
「失恋ショコラティエ」の爽太ぐるぐるしすぎ!
「きょうは会社休みます。」で田之倉、あんたどんだけ手慣れてんのよ。
は現在も追っかけてますね。
以前は白泉社がお気に入りでしたが、ここ5~6年は集英社系がおもしろいと思う。
MdNでも「少女漫画のデザインに革命が起きていた。」という特集を組まれていたりして、表紙デザインなんかも格段に進歩しているそうですよ。あまり気にしていなかったけれど、アオハライドのタイポグラフィはうめぇな、とは思ってた。
ああ、忘れとった。
「LDK」とか、「好きっていいなよ」もフォローしとったわ。
で、いま一番絵が安定していて、いい感じなのって「ひるなかの流星」だと思うんだけど。正直、獅子尾センセも、馬村くんもイケてます。「アーバンな塩ガオ男子」って書いてあって、しょうゆ顔、ソース顔とか言ってた時代の人からは、遠くに来たなあという気分になってしまったけどね。
「ひるなかの流星」って、ほんとオーソドックスな少女マンガ王道作品で、あこがれのセンセイと、ツンデレの美少年の間で揺れる主人公。友達がいい奴らで、高校生活が過ぎてゆく……みたいな。
やべぇ、おっさんもキュンキュンしちゃうっての。
遊ぶなら獅子尾センセだけど、つきあうなら絶対馬村くん押し。
ぶっきらぼうだけど一途なイケメンなんて、これ以上ないスペックじゃあ~りませんか。
あ、一応ゲイとしては9巻のモアザンワーズが、ちとせつない。
少女マンガのコマ割を理解できない男性って多いんだってさ。
その理由がさっぱり分からないんだが、少年マンガよりは複雑だとか。
中国人も少女マンガが分からないらしい。同じシチュエーションと同じテーマの繰り返しに何が意味があるのかって。だから洗練されて、「おお、こうきたか!」となるんですけど、分からない人たちは放っておこう。
ひるなかの流星はけっこうオススメ。
ガキの頃から少女マンガ好きが止められなくて、いまだ話題となってる少女マンガは結構フォローしていることをカミングアウト。(^^;
あー、例えば先日書いた月影ベイベはさておき。
「ちはやふる」だろ。
「3月のライオン」とか。
「アオハライド」もフォローしてるなあ。「ストロボ・エッジ」の方が良いかな。
「君に届け」は風早くん爽やかすぎで。
「失恋ショコラティエ」の爽太ぐるぐるしすぎ!
「きょうは会社休みます。」で田之倉、あんたどんだけ手慣れてんのよ。
は現在も追っかけてますね。
以前は白泉社がお気に入りでしたが、ここ5~6年は集英社系がおもしろいと思う。
MdNでも「少女漫画のデザインに革命が起きていた。」という特集を組まれていたりして、表紙デザインなんかも格段に進歩しているそうですよ。あまり気にしていなかったけれど、アオハライドのタイポグラフィはうめぇな、とは思ってた。
ああ、忘れとった。
「LDK」とか、「好きっていいなよ」もフォローしとったわ。
で、いま一番絵が安定していて、いい感じなのって「ひるなかの流星」だと思うんだけど。正直、獅子尾センセも、馬村くんもイケてます。「アーバンな塩ガオ男子」って書いてあって、しょうゆ顔、ソース顔とか言ってた時代の人からは、遠くに来たなあという気分になってしまったけどね。
「ひるなかの流星」って、ほんとオーソドックスな少女マンガ王道作品で、あこがれのセンセイと、ツンデレの美少年の間で揺れる主人公。友達がいい奴らで、高校生活が過ぎてゆく……みたいな。
やべぇ、おっさんもキュンキュンしちゃうっての。
遊ぶなら獅子尾センセだけど、つきあうなら絶対馬村くん押し。
ぶっきらぼうだけど一途なイケメンなんて、これ以上ないスペックじゃあ~りませんか。
あ、一応ゲイとしては9巻のモアザンワーズが、ちとせつない。
少女マンガのコマ割を理解できない男性って多いんだってさ。
その理由がさっぱり分からないんだが、少年マンガよりは複雑だとか。
中国人も少女マンガが分からないらしい。同じシチュエーションと同じテーマの繰り返しに何が意味があるのかって。だから洗練されて、「おお、こうきたか!」となるんですけど、分からない人たちは放っておこう。
ひるなかの流星はけっこうオススメ。
月影ベイベ がいい感じ
や、タイトルからしてあやしいじゃないですか。
たまに書店で平積みされているのは知っていたけれど、タイトルだけで食わず嫌いしてました。だって、ベイベっすよ!?
ところで、おわら風の盆を想わない日はないほど楽しみにしている我が一家。googleで検索したりして情報集めに励んでいて、偶然知った「月影ベイベはテーマがおわら」。仕事帰りに速攻買いましたよ。「坂道のアポロン」の作家さんか~あれも長崎がいい感じに描写されていたっけか。
東京から転入してきた蛍子は、町の伝統「おわら」を踊れるが人前では緊張して踊れなくなってしまう。
そんな蛍子にひかれる地元の高校生、光。
どうやら、光の叔父と蛍子は昔からの知り合いらしいが、
2人は何も語らない。
小さな町に吹き込む、謎と秘密の風。
日本のマンガがすごいのは、こういう地方の小さな町を舞台にして瑞々しい物語を紡ぐ事ができる事だと思う。財閥の御曹司と恋に落ちるだの、ひょんな事から芸能界に飛び込んでとか、都合良く記憶喪失になる出生の秘密だとか、上っ面な隣んちのドラマとはちがう。どっしり腰を据えて取り組んでいるところが良いわ。
聞けば八尾という町はとても小さい場所だという。
そんな人間関係が濃厚な場所で、伝統芸能の踊りを絡ませてくれば、設定は十分。しかも「静」の踊りと言われる抑制された幻想的な「おわら」がテーマとくれば、恋も忍ぶものになるわけで。
富山弁が分かる母親が異様に喜んでいます。
たまに書店で平積みされているのは知っていたけれど、タイトルだけで食わず嫌いしてました。だって、ベイベっすよ!?
ところで、おわら風の盆を想わない日はないほど楽しみにしている我が一家。googleで検索したりして情報集めに励んでいて、偶然知った「月影ベイベはテーマがおわら」。仕事帰りに速攻買いましたよ。「坂道のアポロン」の作家さんか~あれも長崎がいい感じに描写されていたっけか。
東京から転入してきた蛍子は、町の伝統「おわら」を踊れるが人前では緊張して踊れなくなってしまう。
そんな蛍子にひかれる地元の高校生、光。
どうやら、光の叔父と蛍子は昔からの知り合いらしいが、
2人は何も語らない。
小さな町に吹き込む、謎と秘密の風。
日本のマンガがすごいのは、こういう地方の小さな町を舞台にして瑞々しい物語を紡ぐ事ができる事だと思う。財閥の御曹司と恋に落ちるだの、ひょんな事から芸能界に飛び込んでとか、都合良く記憶喪失になる出生の秘密だとか、上っ面な隣んちのドラマとはちがう。どっしり腰を据えて取り組んでいるところが良いわ。
聞けば八尾という町はとても小さい場所だという。
そんな人間関係が濃厚な場所で、伝統芸能の踊りを絡ませてくれば、設定は十分。しかも「静」の踊りと言われる抑制された幻想的な「おわら」がテーマとくれば、恋も忍ぶものになるわけで。
富山弁が分かる母親が異様に喜んでいます。
ましろのおと10巻目
朝まだ早い赤坂の書店で、ましろのおと10巻を発見!
最近はコミックスの発売日なんてチェックしていないので、新刊を見つけるとちょっとアガるんだよな。
で、竹の華で修行中の澤村雪クンが、いろいろと壁にぶち当たってお悩み中。
10巻は大会とかないので大きな見せ場はないんだけれど、それでも2カ所、じわぁぁと胸が熱くなるシーンがありました。羅川真里茂はホントうめぇなあと。
あんまり関係ないけれど、日経ビジネスに「昭和な会社が強い」という連載があって、その中で倒産したワイキューブという会社の社長がこんな事を言ってた。
「でも昭和な会社が大事にする企業理念や経営者の考え方は、手厚い福利厚生や高い給料で社員に浸透するものではありません。上司から部下へ考え方を受け継ぐ文化が残っている企業って強いじゃないですか。その良さに気付いた時にはもう遅かったです。地道な努力を怠ってしまいました」
津軽三味線も同じで、技とか、曲とか、想いとか、それに携わってきた先人とか、それをすべて引き継いでるじゃないですか。しんみりとした演奏には自然と泣けてくるし、アツイロック調の激しいビートには沸き立ってくるし。
そういう「引き継いできたもの」を背負うのは大変だと思うけれど、すごい奥行きをもたせてもらう。ましろのおとも、奥行きを持たせているのは、青森の風土、津軽三味線の歴史、登場人物の過去。その重たい何かが三味線の調べによって弾けて、そして癒やされる、融和する、ほどけてゆく様を見守るのがカタルシスというか、このマンガの一番おいしい楽しみ方なんだと思う。
ましろのおと、すごいぞ。
最近はコミックスの発売日なんてチェックしていないので、新刊を見つけるとちょっとアガるんだよな。
で、竹の華で修行中の澤村雪クンが、いろいろと壁にぶち当たってお悩み中。
10巻は大会とかないので大きな見せ場はないんだけれど、それでも2カ所、じわぁぁと胸が熱くなるシーンがありました。羅川真里茂はホントうめぇなあと。
あんまり関係ないけれど、日経ビジネスに「昭和な会社が強い」という連載があって、その中で倒産したワイキューブという会社の社長がこんな事を言ってた。
「でも昭和な会社が大事にする企業理念や経営者の考え方は、手厚い福利厚生や高い給料で社員に浸透するものではありません。上司から部下へ考え方を受け継ぐ文化が残っている企業って強いじゃないですか。その良さに気付いた時にはもう遅かったです。地道な努力を怠ってしまいました」
津軽三味線も同じで、技とか、曲とか、想いとか、それに携わってきた先人とか、それをすべて引き継いでるじゃないですか。しんみりとした演奏には自然と泣けてくるし、アツイロック調の激しいビートには沸き立ってくるし。
そういう「引き継いできたもの」を背負うのは大変だと思うけれど、すごい奥行きをもたせてもらう。ましろのおとも、奥行きを持たせているのは、青森の風土、津軽三味線の歴史、登場人物の過去。その重たい何かが三味線の調べによって弾けて、そして癒やされる、融和する、ほどけてゆく様を見守るのがカタルシスというか、このマンガの一番おいしい楽しみ方なんだと思う。
ましろのおと、すごいぞ。
荒野へ into the wild を読了。
つい先ほど、寄り道したカフェで「荒野へ」を読み終えた。
ジョン・クラカワー……10年ほど前、顔も知らない人に熱く語っていた事を思い出した。今は、何もかも皆懐かしい。
1992年夏、アラスカの荒野に放置されたバスの中で、腐乱死体で発見された青年の人生を追いかけた物語。本の表紙に掲載されたバスの写真が、なにか尋常じゃない寂寥感が溢れ出していて、僕は長い間手を出さずにいた。今回、改めて手に取ってしまい、そして深いため息をつくしかなかったんだけど。
日本人には「荒野」という感覚があまりないんだと思う。
日本人にとって自然は身近で、共生する存在であることをDNAレベルで刷り込まれている。そりゃ、北海道の釧路平原なんて荒野そのものなんだろうけれど、現実的に「荒野」というものに実感がわかない。
ところが欧米人というものは、時々荒野で自然と対峙したくなるものらしい。イエスだって40日ほど荒野を彷徨ったそうだし。腐乱死体で発見されたクリス・マッカンドレスは、大学在学中からアメリカ中西部の荒野を彷徨い、そして彼の人生最後の120日あまりをアラスカの荒野で一人で過ごした。
この本は一時期若者のバイブルになったんだそうだ。
反文明、反物質主義、エコロジストetc、こういうものに惹かれてゆく人は一定程度現れる。クリス・マッカンドレスの場合、変わり者だったようだし、家族関係もあまり良好でもなかったようだし、他人に指図される事が嫌いだったようだ。頭が良く、人並み以上の才能に恵まれ、純真で、情熱的で、理想主義で……でも、きっと彼は現代社会の仕組みと折り合いをつけにくかったんだろう。彼の純真さは、彼と出会ったたくさんの人たちを魅了しながら、彼自身は一カ所に落ち着くのも、誰かに指図されるのも嫌いで。社会の仕組みと折り合いがつけられず、自由でいたかったんだろう。
彼は、たぶん不慮のトラブルで命を落としたと想像されている。でもその「荒野」はハイウエイから数キロの場所で、サハラ砂漠のど真ん中とか、タクラマカン砂漠の灼熱地獄の中、とかいうわけでもないのだ。本当に「荒野」を目指すなら、アフリカとかまったく別の文化圏での「荒野」でも良かったはずなのに、彼はアメリカで「荒野」を目指している。僕は最後まで腑に落ちなかった。なぜなんだろう。独りでしばらく「土地が与えてくれるものを食べて生活する」という彼の生活も、意地悪くいえば、しがらみから逃れて独りぼっちのキャンプ生活を楽しんでいた若者といえなくもない。青臭いモラトリアムとか?
それでも、理想主義に燃えていた青年が悲劇の結末を迎える様は読者の心を掴んで離さない。彼は荒野に分け入って、結局還って来れなかった人だけど、人は誰でも自分の力がどこまで通用するのか試してみたい気持ちと、美しい自然と対峙してみたい誘惑には抗いがたいから。
ジョン・クラカワーは、作為的かどうか分からないけれど、クリス・マッカンドレスの風貌についてほとんど記述していない。本人の写真を見て、なるほど、笑顔が魅力的な好青年だったことが分かる。だからこそ、なぜ彼は荒野を目指したのか、世の人は気になるんだろうな。
ジョン・クラカワー……10年ほど前、顔も知らない人に熱く語っていた事を思い出した。今は、何もかも皆懐かしい。
1992年夏、アラスカの荒野に放置されたバスの中で、腐乱死体で発見された青年の人生を追いかけた物語。本の表紙に掲載されたバスの写真が、なにか尋常じゃない寂寥感が溢れ出していて、僕は長い間手を出さずにいた。今回、改めて手に取ってしまい、そして深いため息をつくしかなかったんだけど。
日本人には「荒野」という感覚があまりないんだと思う。
日本人にとって自然は身近で、共生する存在であることをDNAレベルで刷り込まれている。そりゃ、北海道の釧路平原なんて荒野そのものなんだろうけれど、現実的に「荒野」というものに実感がわかない。
ところが欧米人というものは、時々荒野で自然と対峙したくなるものらしい。イエスだって40日ほど荒野を彷徨ったそうだし。腐乱死体で発見されたクリス・マッカンドレスは、大学在学中からアメリカ中西部の荒野を彷徨い、そして彼の人生最後の120日あまりをアラスカの荒野で一人で過ごした。
この本は一時期若者のバイブルになったんだそうだ。
反文明、反物質主義、エコロジストetc、こういうものに惹かれてゆく人は一定程度現れる。クリス・マッカンドレスの場合、変わり者だったようだし、家族関係もあまり良好でもなかったようだし、他人に指図される事が嫌いだったようだ。頭が良く、人並み以上の才能に恵まれ、純真で、情熱的で、理想主義で……でも、きっと彼は現代社会の仕組みと折り合いをつけにくかったんだろう。彼の純真さは、彼と出会ったたくさんの人たちを魅了しながら、彼自身は一カ所に落ち着くのも、誰かに指図されるのも嫌いで。社会の仕組みと折り合いがつけられず、自由でいたかったんだろう。
彼は、たぶん不慮のトラブルで命を落としたと想像されている。でもその「荒野」はハイウエイから数キロの場所で、サハラ砂漠のど真ん中とか、タクラマカン砂漠の灼熱地獄の中、とかいうわけでもないのだ。本当に「荒野」を目指すなら、アフリカとかまったく別の文化圏での「荒野」でも良かったはずなのに、彼はアメリカで「荒野」を目指している。僕は最後まで腑に落ちなかった。なぜなんだろう。独りでしばらく「土地が与えてくれるものを食べて生活する」という彼の生活も、意地悪くいえば、しがらみから逃れて独りぼっちのキャンプ生活を楽しんでいた若者といえなくもない。青臭いモラトリアムとか?
それでも、理想主義に燃えていた青年が悲劇の結末を迎える様は読者の心を掴んで離さない。彼は荒野に分け入って、結局還って来れなかった人だけど、人は誰でも自分の力がどこまで通用するのか試してみたい気持ちと、美しい自然と対峙してみたい誘惑には抗いがたいから。
ジョン・クラカワーは、作為的かどうか分からないけれど、クリス・マッカンドレスの風貌についてほとんど記述していない。本人の写真を見て、なるほど、笑顔が魅力的な好青年だったことが分かる。だからこそ、なぜ彼は荒野を目指したのか、世の人は気になるんだろうな。
"人類資金" … 結末まで到達できるんだろうか??
福井晴敏さんの新作"人類資金"って、ちょっとタブーに触りすぎじゃないかな??
7巻まで続くそうだけど、ゴールインできるのかちょっと心配になってきた。(w
第2巻のキモとなる部分はここ。
====================
『いったいどこのどいつだ?』と津山は呻くように言った。
『こんな紙っ切れに価値があるって"ルール"を作って、おれたちを煙に巻いてる野郎は……』
だからこそ知りたい。
一万円札には一万円の価値がある、国家も企業も永遠に成長し続けねばならない--いまや常識でしかない貨幣経済の根幹に居座り、おそらくは『M資金』という魔物をもってこの国をも支配し続けてきた何者か。
まあいいさ。
"ルール"のせいでもなんでも、夢や希望があるってのは結構なことだ。
でもな、成長し続けなきゃな見れない夢ってなんなんだ?
無理なんだよ、もう。
みんな爪先立って、見かけの数字を稼いだってさ、誰も幸せになれてないじゃん。
いまの"ルール"に従ってる限り、この先はもうないんだよ。
"ルール"に支配されて、その場しのぎをくり返して……どこへ行こうとしているんだ……?
====================
小説のなかでは"M資金"だの、世界最大の財閥であり超国家権力でもある"ローゼンバーグ財閥"など、いろいろな小道具が出てくるけれど、福井節おなじみのキャラクターたちも、ただの狂言回し。
大学で経済学を勉強して、皆が見て見ぬ振りをしているのは「利子」という存在だ。
「現在価値」と「将来価値」の差が利子であるとかって、正直すんなりと納得できる?? 後付けの説明がお為ごかしにされるだけで、「利子」の起源とその運用による影響を真正面から語っている学者っているんだろうかね。異端の経済学者がどこかで語っているのかもしれないけれど。
経済活動に永遠の成長を強いるのは「利子」の存在。
なぜ「カネ」はその価値を減ずることなく、人の寿命よりも遙か永くに渡って存在し続けるのか?
そして何かに投じられ、誰かに貸し付けられることによって「増殖」する。
利子はどうやって支払われるのか?
農業のように種を蒔いて、その100倍、1000倍の収穫が得られれば、利子をつけて返済できる。
でも、もし「カネ」が金属じゃなくてただの有機物だったら、腐ったり、ネズミに食われたりして、「元本が減ずる」こともある。なぜ「カネ」だけが永遠なのだ。だれがカネは永遠に価値が減じないと決めたのだろう。農民は「元本(種)を維持してやっているのだから、むしろ利子なんかないだろう」といえるはず……と主張したのが異端の経済学者シルビオ・ゲゼル。
ホリエモンはかつて「株は返さなくていいカネ」と言っていたと記憶している。
そりゃたぶん間違いで、株式は(市場価値の増減はともかく)会社が倒産するまで利益の収奪ができる権利。
例えば株式会社が出来たときに、株で得たお金で買い込んだ生産機材…それが耐用年数が過ぎ、壊れてしまって全く無価値になってしまったとしても「株式」は残り続ける。そして配当を受ける権利だけが残り続ける。なぜだろう?? 僕はマルクスを勉強したことはないけれど、資本家が労働者の剰余価値を簒奪しているというのは、その一面だけで、深刻なのは企業が倒産しない限り「支配」の権利が消失しない株式会社というシステム。しかも「株主」というステークホルダーは「増え続ける一方」だから、企業も常に成長を強いられる。
生産性が貨幣の増殖率を上回っているうちは、まあ、まだなんとかなるんでしょうが。
貨幣の増殖が生産性を上回ると、生産物の価値を固定して考えると貨幣の価値が下がる。
インフレだ。
ただの「交換手段」のはずのカネの量が増殖することで、インフレが発生する。
インフレを乗り越えるために、さらなる生産性の向上に追い立てられる。
生産性の限界が来れば、今度は「コスト削減」の嵐が吹き荒れると。
小説"人類資金"の"ルール"が単なる暴力装置の超国家財閥とか、国家とかではなければいいと思う。その根本には「(永遠の命を持つ)貨幣と(無限に増殖を続ける)利子」という壮大なペテンがあって。金はともかく、その他の卑金属の硬貨にも「これは価値がある」というペテンをかけた謎の存在があって。
経済史によれば「金の預かり証」だった紙幣を、その金の価値以上に勝手に増殖させたペテン氏たちがいて。しかも「最後の価値を担保する金」という共同幻想と紙幣を切り離して、勝手に増殖させることの出来るのが現行制度であって……。
「貨幣と利子」「収奪システムとしての株式会社」は世界最大のペテンだろうな。キリストは必ず復活すると叫んでいるカルト宗教が可愛らしく見えるくらいの。
マルクスはこのペテンを階級闘争で解決しろとアジったわけですけど、あれもポジショントークだったのかもな。仮に共産主義革命が成功しても「貨幣と利子」のシステムは無くならなかっただろうから。
解決方法は、たぶん、エイジングマネーだと思うんだけど。
でも、「永遠の命を持っているカネという存在」を「経年劣化して最後は滅びるカネ(歳をとるカネ。つまり長くの保存が出来ない。常に交換が強いられ退蔵されないから経済の需給が一致する)」に変えるというのは、コペルニクス的転換以上のジャンプが求められる。
だけど、もし「貨幣と利子」の呪縛が解けたなら、リアル"マトリックス"になっちゃうわけだが。
三鷹駅前のドトールから。
7巻まで続くそうだけど、ゴールインできるのかちょっと心配になってきた。(w
第2巻のキモとなる部分はここ。
====================
『いったいどこのどいつだ?』と津山は呻くように言った。
『こんな紙っ切れに価値があるって"ルール"を作って、おれたちを煙に巻いてる野郎は……』
だからこそ知りたい。
一万円札には一万円の価値がある、国家も企業も永遠に成長し続けねばならない--いまや常識でしかない貨幣経済の根幹に居座り、おそらくは『M資金』という魔物をもってこの国をも支配し続けてきた何者か。
まあいいさ。
"ルール"のせいでもなんでも、夢や希望があるってのは結構なことだ。
でもな、成長し続けなきゃな見れない夢ってなんなんだ?
無理なんだよ、もう。
みんな爪先立って、見かけの数字を稼いだってさ、誰も幸せになれてないじゃん。
いまの"ルール"に従ってる限り、この先はもうないんだよ。
"ルール"に支配されて、その場しのぎをくり返して……どこへ行こうとしているんだ……?
====================
小説のなかでは"M資金"だの、世界最大の財閥であり超国家権力でもある"ローゼンバーグ財閥"など、いろいろな小道具が出てくるけれど、福井節おなじみのキャラクターたちも、ただの狂言回し。
大学で経済学を勉強して、皆が見て見ぬ振りをしているのは「利子」という存在だ。
「現在価値」と「将来価値」の差が利子であるとかって、正直すんなりと納得できる?? 後付けの説明がお為ごかしにされるだけで、「利子」の起源とその運用による影響を真正面から語っている学者っているんだろうかね。異端の経済学者がどこかで語っているのかもしれないけれど。
経済活動に永遠の成長を強いるのは「利子」の存在。
なぜ「カネ」はその価値を減ずることなく、人の寿命よりも遙か永くに渡って存在し続けるのか?
そして何かに投じられ、誰かに貸し付けられることによって「増殖」する。
利子はどうやって支払われるのか?
農業のように種を蒔いて、その100倍、1000倍の収穫が得られれば、利子をつけて返済できる。
でも、もし「カネ」が金属じゃなくてただの有機物だったら、腐ったり、ネズミに食われたりして、「元本が減ずる」こともある。なぜ「カネ」だけが永遠なのだ。だれがカネは永遠に価値が減じないと決めたのだろう。農民は「元本(種)を維持してやっているのだから、むしろ利子なんかないだろう」といえるはず……と主張したのが異端の経済学者シルビオ・ゲゼル。
ホリエモンはかつて「株は返さなくていいカネ」と言っていたと記憶している。
そりゃたぶん間違いで、株式は(市場価値の増減はともかく)会社が倒産するまで利益の収奪ができる権利。
例えば株式会社が出来たときに、株で得たお金で買い込んだ生産機材…それが耐用年数が過ぎ、壊れてしまって全く無価値になってしまったとしても「株式」は残り続ける。そして配当を受ける権利だけが残り続ける。なぜだろう?? 僕はマルクスを勉強したことはないけれど、資本家が労働者の剰余価値を簒奪しているというのは、その一面だけで、深刻なのは企業が倒産しない限り「支配」の権利が消失しない株式会社というシステム。しかも「株主」というステークホルダーは「増え続ける一方」だから、企業も常に成長を強いられる。
生産性が貨幣の増殖率を上回っているうちは、まあ、まだなんとかなるんでしょうが。
貨幣の増殖が生産性を上回ると、生産物の価値を固定して考えると貨幣の価値が下がる。
インフレだ。
ただの「交換手段」のはずのカネの量が増殖することで、インフレが発生する。
インフレを乗り越えるために、さらなる生産性の向上に追い立てられる。
生産性の限界が来れば、今度は「コスト削減」の嵐が吹き荒れると。
小説"人類資金"の"ルール"が単なる暴力装置の超国家財閥とか、国家とかではなければいいと思う。その根本には「(永遠の命を持つ)貨幣と(無限に増殖を続ける)利子」という壮大なペテンがあって。金はともかく、その他の卑金属の硬貨にも「これは価値がある」というペテンをかけた謎の存在があって。
経済史によれば「金の預かり証」だった紙幣を、その金の価値以上に勝手に増殖させたペテン氏たちがいて。しかも「最後の価値を担保する金」という共同幻想と紙幣を切り離して、勝手に増殖させることの出来るのが現行制度であって……。
「貨幣と利子」「収奪システムとしての株式会社」は世界最大のペテンだろうな。キリストは必ず復活すると叫んでいるカルト宗教が可愛らしく見えるくらいの。
マルクスはこのペテンを階級闘争で解決しろとアジったわけですけど、あれもポジショントークだったのかもな。仮に共産主義革命が成功しても「貨幣と利子」のシステムは無くならなかっただろうから。
解決方法は、たぶん、エイジングマネーだと思うんだけど。
でも、「永遠の命を持っているカネという存在」を「経年劣化して最後は滅びるカネ(歳をとるカネ。つまり長くの保存が出来ない。常に交換が強いられ退蔵されないから経済の需給が一致する)」に変えるというのは、コペルニクス的転換以上のジャンプが求められる。
だけど、もし「貨幣と利子」の呪縛が解けたなら、リアル"マトリックス"になっちゃうわけだが。
三鷹駅前のドトールから。
"人類資金"を見つけてテンション上がった~
PCを本格的に復旧させるには、週末まで掛かりそう。(-_-)
初めてですが、ハードディスクを修理に出してみるつもりです。
で、修理中にディスクをもう1本追加しておくつもりなんですけど。
そんなわけで旅行中の写真を取り出せないので、東北旅行記はしばらくお休みをいただくことになります。
そのうち再開しますが。
今日、外出途中の書店で福井晴敏の新刊本を見つけてテンション上がった~!!!
"人類資金"ってヤツなんですが、そうか~今回は経済ネタですか。
福井晴敏も似たようなこと考えていたんだな。
大学の経済学じゃ教えてくれませんが。
世界を破滅に追い込むモノがあるとしたら、それは核戦争とかじゃなくて、マネーなんですよね。
貨幣と利子
資本主義の「株式」という不死の支配者
管理通貨制度による野放図なマネー増加
人類が衰退するとしたら、環境汚染が悪化しすぎて息絶えるか、野放図なマネーに取り付かれた経済が破綻し、文明自体が活力を失って衰亡するか、そんなところだと思います。
"人類資金"第一巻を読み進めてます。
へばっ!
初めてですが、ハードディスクを修理に出してみるつもりです。
で、修理中にディスクをもう1本追加しておくつもりなんですけど。
そんなわけで旅行中の写真を取り出せないので、東北旅行記はしばらくお休みをいただくことになります。
そのうち再開しますが。
今日、外出途中の書店で福井晴敏の新刊本を見つけてテンション上がった~!!!
"人類資金"ってヤツなんですが、そうか~今回は経済ネタですか。
福井晴敏も似たようなこと考えていたんだな。
大学の経済学じゃ教えてくれませんが。
世界を破滅に追い込むモノがあるとしたら、それは核戦争とかじゃなくて、マネーなんですよね。
貨幣と利子
資本主義の「株式」という不死の支配者
管理通貨制度による野放図なマネー増加
人類が衰退するとしたら、環境汚染が悪化しすぎて息絶えるか、野放図なマネーに取り付かれた経済が破綻し、文明自体が活力を失って衰亡するか、そんなところだと思います。
"人類資金"第一巻を読み進めてます。
へばっ!
脳がフリーズして、腐ってるんじゃないかと。
酷暑を通り越して、痛暑とでも言いましょうか!?
これだけ暑い日が続くとまいりますねぇ (-_-;)
帰宅して、お茶を飲みながらTVをつけたら、"グラディエーター"をやっていて、ついつい最後まで観てしまいましたよ。リドリー・スコット監督の絵はとても好きなんだ。あのグレーががったメタリックのような画面は、どうやったら手に入れられるんだろう。フィルターなのか、Photoshopのようなツールで調整しているのか。。。。とっても知りたい。
ここからちょっとマジバナになります。
彼氏にも言っていませんでしたが、僕はずーっと、10年くらい苦しんでいることがありました。綴じ代が外れてしまった本が頭の中に溢れて収拾がつかなくなっているというか。画面の写っているMSゴシックを見続けていたために、なにが重要でなにがどうでもいいことなのか分からなくなって、すべてがフラットの世界で苦しいというか。頭がほんの一部だけしか動いていなくて、あとほとんどは死んだように機能していないように感じることが多かったりとか。乱視であることが分かったので眼鏡をかけて、少し頭がすっきりするようになったのだけど、実は原因と結果が逆で、頭がすっきりしないから目の焦点が固定されて乱視状態になってしまったんじゃないか、、、、とか。
これって鬱なのか、あるいはなんらかのテクノストレスなんだろうけど、医者に掛かっても原因が分からないんだろうなーと思ってました。僕が昔、花粉症と呼ばれる病気が知られるようになるより前から、春になると「慢性鼻炎」と誤診されていたように。
で、先日「フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる」という本があることを知りました。早速買って読んだら「あ~あるある、同じ症状だなあ」という事が分かったんだ。脳がフリーズしている人は目が動いていないらしいよ。そして目を動かさないとボケてしまうんだって。脳の使い方が偏っていると「ボケまっせ」って。
ボケは怖いよ。自分が自分じゃなくなって行く感じだから。オレ、緩慢に死んでってるわぁって思ってましたから。
あわせて「脳が冴える15の習慣」って本も買ってみた。
こちらは「フリーズする脳」が終わったら手をつけてみる。
結局さ、一日中PCに向かって仕事するなんて身体に悪いだけ、ってことなんですね。
これだけ暑い日が続くとまいりますねぇ (-_-;)
帰宅して、お茶を飲みながらTVをつけたら、"グラディエーター"をやっていて、ついつい最後まで観てしまいましたよ。リドリー・スコット監督の絵はとても好きなんだ。あのグレーががったメタリックのような画面は、どうやったら手に入れられるんだろう。フィルターなのか、Photoshopのようなツールで調整しているのか。。。。とっても知りたい。
ここからちょっとマジバナになります。
彼氏にも言っていませんでしたが、僕はずーっと、10年くらい苦しんでいることがありました。綴じ代が外れてしまった本が頭の中に溢れて収拾がつかなくなっているというか。画面の写っているMSゴシックを見続けていたために、なにが重要でなにがどうでもいいことなのか分からなくなって、すべてがフラットの世界で苦しいというか。頭がほんの一部だけしか動いていなくて、あとほとんどは死んだように機能していないように感じることが多かったりとか。乱視であることが分かったので眼鏡をかけて、少し頭がすっきりするようになったのだけど、実は原因と結果が逆で、頭がすっきりしないから目の焦点が固定されて乱視状態になってしまったんじゃないか、、、、とか。
これって鬱なのか、あるいはなんらかのテクノストレスなんだろうけど、医者に掛かっても原因が分からないんだろうなーと思ってました。僕が昔、花粉症と呼ばれる病気が知られるようになるより前から、春になると「慢性鼻炎」と誤診されていたように。
で、先日「フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる」という本があることを知りました。早速買って読んだら「あ~あるある、同じ症状だなあ」という事が分かったんだ。脳がフリーズしている人は目が動いていないらしいよ。そして目を動かさないとボケてしまうんだって。脳の使い方が偏っていると「ボケまっせ」って。
ボケは怖いよ。自分が自分じゃなくなって行く感じだから。オレ、緩慢に死んでってるわぁって思ってましたから。
あわせて「脳が冴える15の習慣」って本も買ってみた。
こちらは「フリーズする脳」が終わったら手をつけてみる。
結局さ、一日中PCに向かって仕事するなんて身体に悪いだけ、ってことなんですね。
きょうは会社休みます。 いや、マジに休みたい
晴れ。30.7℃/25.2℃/66%
カフェでMacBook Airを使いながらドヤ顔をしたい、というわけではないのだけれど。外で仕事する方が捗ることはあると思う。適度なざわめきと、コーヒーのアロマが脳を活性化してゆく感じ。誰が言ったのか忘れてしまったけれど、Royal Hostが一番クリエイティブになれるらしいよ。
話が脱線してしまった……。。。。
で、そのMacBook Air でぜんぜん捗らない仕事がある。
それはプレゼン資料作り。
こればかりはでかいモニターの方が断然捗る。
絵描きさんじゃないけれど、キャンパスはでかい方がキモチイイのに似ている。
というわけで、外ではMacBook Air、自宅ではデスクトップで作業を続行できるよう、先ほどPowerPointをインストールしましたとさ。
あ、そーいえば、最近少女マンガが豊作らしいですね。
咲坂伊緒の『アオハライド』で胸きゅん、とくれば、藤村真里の『きょうは会社休みます。』は書店がプッシュしてるみたいだし。
『きょうは会社休みます。』は彼氏いない歴&処女歴33年のOLさんが、一回り年下の大学生とカップルになるお話です。処女歴33年とかキャッチーなコピーが刺激的ですけど、恋するオトメは永遠に少女のままってわけで、べた甘の少女マンガですわ。しかも大学生の田之倉悠斗クンが、手練れの中年オヤジ並の恋愛強者なところがなんとも。。。(w
少女マンガ、もっとオトコも楽しめば良いよね……。
カフェでMacBook Airを使いながらドヤ顔をしたい、というわけではないのだけれど。外で仕事する方が捗ることはあると思う。適度なざわめきと、コーヒーのアロマが脳を活性化してゆく感じ。誰が言ったのか忘れてしまったけれど、Royal Hostが一番クリエイティブになれるらしいよ。
話が脱線してしまった……。。。。
で、そのMacBook Air でぜんぜん捗らない仕事がある。
それはプレゼン資料作り。
こればかりはでかいモニターの方が断然捗る。
絵描きさんじゃないけれど、キャンパスはでかい方がキモチイイのに似ている。
というわけで、外ではMacBook Air、自宅ではデスクトップで作業を続行できるよう、先ほどPowerPointをインストールしましたとさ。
あ、そーいえば、最近少女マンガが豊作らしいですね。
咲坂伊緒の『アオハライド』で胸きゅん、とくれば、藤村真里の『きょうは会社休みます。』は書店がプッシュしてるみたいだし。
『きょうは会社休みます。』は彼氏いない歴&処女歴33年のOLさんが、一回り年下の大学生とカップルになるお話です。処女歴33年とかキャッチーなコピーが刺激的ですけど、恋するオトメは永遠に少女のままってわけで、べた甘の少女マンガですわ。しかも大学生の田之倉悠斗クンが、手練れの中年オヤジ並の恋愛強者なところがなんとも。。。(w
少女マンガ、もっとオトコも楽しめば良いよね……。
雨の日は、自宅で自炊作業が捗る
雨の週末は、自宅で自炊作業です。
会社の同僚の間で自炊が流行っていて、皆週末になるとそれぞれのコンテンツを電子書籍化したり、iPod用に変換しているようで。
でもさすがに僕のようにプラスの裁断機を買い込んでいる人はいないみたい。
あれ、場所は取るけれど作業は捗るんだよ。
僕の自炊作業はこんな感じ。
本を裁断
↓
ScanSnapで読み取り
設定はこんな感じ
■画質 スーパーファイン
■カラーモードの選択 カラー
■ファイル形式 JPEG
■圧縮率 圧縮弱く・ファイルサイズ大きく で「1」
↓
Resizer 藤でサイズ変換
設定はこんな感じ
■幅:1024、高さ1600
■縦横比を維持する
■条件:高さ基準
■効果:白色化、輪郭強調
今日も16冊電子化しました。
腰乃「未知との遭遇」がめちゃめちゃおもしろいです。
もはやBLと言ってよいのかわかりませんが。
会社の同僚の間で自炊が流行っていて、皆週末になるとそれぞれのコンテンツを電子書籍化したり、iPod用に変換しているようで。
でもさすがに僕のようにプラスの裁断機を買い込んでいる人はいないみたい。
あれ、場所は取るけれど作業は捗るんだよ。
僕の自炊作業はこんな感じ。
本を裁断
↓
ScanSnapで読み取り
設定はこんな感じ
■画質 スーパーファイン
■カラーモードの選択 カラー
■ファイル形式 JPEG
■圧縮率 圧縮弱く・ファイルサイズ大きく で「1」
↓
Resizer 藤でサイズ変換
設定はこんな感じ
■幅:1024、高さ1600
■縦横比を維持する
■条件:高さ基準
■効果:白色化、輪郭強調
今日も16冊電子化しました。
腰乃「未知との遭遇」がめちゃめちゃおもしろいです。
もはやBLと言ってよいのかわかりませんが。
神の雫、ましろのおと にもルーツはあるか。
鼻が利かなくなると、味がわからなくなる、と言いますね。
僕らが味は舌で感じているものと思っていたのに、実はそうじゃなかったことを知ると意外な気分になる。
先日、現代マンガは手塚治虫の仕事に多くの影響を受けていると解説されてた。というか、表現に映画的手法取り入れ、ストーリーマンガ化したのは手塚治虫の業績だと。これに異存を唱える人は少なくないんじゃないかと思う。
マンガ表現のルーツに思いを巡らしてみると、なかなかおもしろいんじゃないかと。
タイトルの長い最近の作品は読んでいないので、僕の知っている範囲では、"神の雫"と"ましろのおと"が実験的な作品だなあと感じている。"神の雫"はワインを、"ましろのおと"は音楽を絵で表現しようとしている。
でもまあ、ワインは舌と鼻で、音楽は耳で感じるもので、「絵」でそれを伝えるのは難しい。というか、目がなくても楽しめるのがワインと音楽だ。
神の雫 第1巻から。
ましろのおと 第6巻から。
そんなことをつらつらと考えていると、本来目以外で感じるはずの感覚を絵で表現するってことのルーツは、グルメマンガにあるんだろうなあと思った。美味しんぼじゃなくて、たぶんバトル料理マンガ。将太の寿司とか、きららの仕事とか、とにかく審査員が優劣をつけるために美味さを表現しなきゃならない。そういう表現技術の積み重ねに、神の雫や ましろのおと も連なっているんじゃないかと。
バトル系料理マンガを見ていると、審査員の表情、使われる文字(こういうときに漢字は超便利)、大胆なコマ割、吹き出し文字のフォントサイズなどにものすごい工夫を感じる。で、あとは勢い。昔、腕のいい小説家はどんな場面でも読者を力尽くでねじ伏せられると聞いたが、「美味い」「上手い」はたぶん僕らは「表現力でねじ伏せられて」、なかば騙されたように納得させられてしまうんだろうな。
ましろのおと では、主人公雪の津軽三味線を聴きながら、彼の回想シーンに入っていく。それが結構長くて、往年のドカベン…一打席で一回バット振るのに何週間かかってるんじゃい!?ってな感じで。ドカベンの中で。一打席の間に、殿馬一人が指が短いために弾けない曲(ショパンの別れの曲)があって、指のマタを広げる(いわゆる水掻き部分を切除する)手術を受ける回想シーンを思い出したほど。
「感動する」とか、「鳥肌立つ」ってのは、感覚器から入って脳に到達するまでいくつかのルートがあって、味覚や聴覚に訴える内容のものを視覚でねじ伏せられちゃっているのだろうか。そう考えるとマンガの表現はまだいろいろな可能性があるような気がする。
それにしても、ましろのおと は尻上がりにおもしろくなってきているので、注目のマンガだと思う。
僕らが味は舌で感じているものと思っていたのに、実はそうじゃなかったことを知ると意外な気分になる。
先日、現代マンガは手塚治虫の仕事に多くの影響を受けていると解説されてた。というか、表現に映画的手法取り入れ、ストーリーマンガ化したのは手塚治虫の業績だと。これに異存を唱える人は少なくないんじゃないかと思う。
マンガ表現のルーツに思いを巡らしてみると、なかなかおもしろいんじゃないかと。
タイトルの長い最近の作品は読んでいないので、僕の知っている範囲では、"神の雫"と"ましろのおと"が実験的な作品だなあと感じている。"神の雫"はワインを、"ましろのおと"は音楽を絵で表現しようとしている。
でもまあ、ワインは舌と鼻で、音楽は耳で感じるもので、「絵」でそれを伝えるのは難しい。というか、目がなくても楽しめるのがワインと音楽だ。
神の雫 第1巻から。
ましろのおと 第6巻から。
そんなことをつらつらと考えていると、本来目以外で感じるはずの感覚を絵で表現するってことのルーツは、グルメマンガにあるんだろうなあと思った。美味しんぼじゃなくて、たぶんバトル料理マンガ。将太の寿司とか、きららの仕事とか、とにかく審査員が優劣をつけるために美味さを表現しなきゃならない。そういう表現技術の積み重ねに、神の雫や ましろのおと も連なっているんじゃないかと。
バトル系料理マンガを見ていると、審査員の表情、使われる文字(こういうときに漢字は超便利)、大胆なコマ割、吹き出し文字のフォントサイズなどにものすごい工夫を感じる。で、あとは勢い。昔、腕のいい小説家はどんな場面でも読者を力尽くでねじ伏せられると聞いたが、「美味い」「上手い」はたぶん僕らは「表現力でねじ伏せられて」、なかば騙されたように納得させられてしまうんだろうな。
ましろのおと では、主人公雪の津軽三味線を聴きながら、彼の回想シーンに入っていく。それが結構長くて、往年のドカベン…一打席で一回バット振るのに何週間かかってるんじゃい!?ってな感じで。ドカベンの中で。一打席の間に、殿馬一人が指が短いために弾けない曲(ショパンの別れの曲)があって、指のマタを広げる(いわゆる水掻き部分を切除する)手術を受ける回想シーンを思い出したほど。
「感動する」とか、「鳥肌立つ」ってのは、感覚器から入って脳に到達するまでいくつかのルートがあって、味覚や聴覚に訴える内容のものを視覚でねじ伏せられちゃっているのだろうか。そう考えるとマンガの表現はまだいろいろな可能性があるような気がする。
それにしても、ましろのおと は尻上がりにおもしろくなってきているので、注目のマンガだと思う。
君にもわかるISO 許可証をください!
いや~、BL小説には過去ありとあらゆる職業が登場してまいりました。
しかし、「ISO9001取得」がテーマのBoysLoveは前代未聞だろう。
普段からISOだの、ISMSの意義を説明するのに四苦八苦している当社としては、度肝を抜かれたわけでございます。早速、オトナ買いして、腐女子と手分けして読み進め中。まずは第一巻の「許可証をください!」を読了しました。これ、結構いいですね。BLとしては異色の出来栄え。化学工場で働くお兄さんたちがモデルというのも異色。
ISO9001が「君にもわかる」ようになるんでしょうか!?
月曜日に腐女子と語り合うネタが増えてしまった。。。
しかし、「ISO9001取得」がテーマのBoysLoveは前代未聞だろう。
普段からISOだの、ISMSの意義を説明するのに四苦八苦している当社としては、度肝を抜かれたわけでございます。早速、オトナ買いして、腐女子と手分けして読み進め中。まずは第一巻の「許可証をください!」を読了しました。これ、結構いいですね。BLとしては異色の出来栄え。化学工場で働くお兄さんたちがモデルというのも異色。
ISO9001が「君にもわかる」ようになるんでしょうか!?
月曜日に腐女子と語り合うネタが増えてしまった。。。
春の雪 - 三島由紀夫作 豊饒の海から
書きかけのタイ・シンガポール旅行記で、次に登場するのがワット・ポー(Wat Pho)。
ワット・ポーと言えば、アレである。(。_゜)
ただいま僕は三島由紀夫作「豊饒の海」を読み進めていて、第二巻「奔馬」の難所「神風連史話」で難儀していることもあって、また「春の雪」オリジナル松枝清顕の記憶が薄れてしまう前に、いろいろと感じていることを書き留めておこうかと思う。なにせ、あまりにすごい作品なので。
三島由紀夫を読むのは、学生時代に"金閣寺"、"仮面の告白"、"禁色"を読んでから絶えて久しかった。しかも「いまさら三島ぁ?」という先入観もあって。彼の文章は装飾過剰で、オールドファッションの先入観があったんだ。だけど、バンコクを旅行したこともあり、なんだか不思議な縁に導かれて「豊饒の海 第一巻 春の雪」を手に取ったら、もう、すっかり三島ワールドに取り込まれてしまった。なんて美しい日本語なのだろう。なんて巧みな表現なのだろう。いま、これだけの文章を書ける小説家は存在するのだろうか。
全編惚れ惚れする文章だけど、特にご紹介したいのは、この二つのシーンだ。
最初は、月光に照らされて美少年の誉れ高い松枝侯爵の子息松枝清顕が悶々とするシーン。
====================
彼は帷を乱暴にひらいた。
月は中天にあり、月かげはベッドの上いちめんにひろがった。
月は浮薄なほどきらびやかに見えた。
彼は聡子の着ていた着物のあの冷たい絹の照りを思い出し、その月に聡子の、あの近くで見すぎた大きな美しい目を如実に見た。風はもう止んでいた。
清顕は煖房のせいばかりでなく、体が火のように熱く、熱さに耳もなる思いがしてきて、毛布をはだけ、寝間着の胸をひらいた。
それでも身内に燃えている火は、肌のそこかしこに穂先を走らすようで、月の冷たい光りに浴さなければ納まらない気がしてきて、とうとう寝間着を半ば脱いで半裸になり、物思いに倦み果てた背を月に向けて、枕に顔を伏せた。
なお顳顬は熱く脈打った。
清顕はそうして、たとえようもなく白い、なだらかな裸の背を月光にさらしている。
月かげがその優柔な肉にも多少のこまかい起伏をえがき、それが女の肌ではなくて、熟し切らぬ若者の肌のごくほのかな厳しさを湛えていることを示している。
わけても、月が丁度深くさし入っているその左の脇腹の辺りは、胸の鼓動をつたえる肉の隠微な動きが、そこのまばゆいほどの肌の白さを際立たせている。
そこには目立たぬ小さな黒子がある。
しかもきわめて小さな三つの黒子が、あたかも唐鋤星のように、月を浴びて、影を失っているのである。
春の雪 - 豊饒の海より
====================
散々「耽美系」というボーイズラブを読んできたけれど、月光を浴びる半裸の少年を描写するのに、こんなに達者な作家は出会ったことがない。
あと、もう一つおすすめなのは、松枝清顕と綾倉聡子がはじめて二人だけでデートする場面。
====================
蓼科のすぼめられた傘に守られて、紫の被布の袂を胸元に合わせた聡子が、うつむいて耳門(くぐり)を抜けて来た姿は、清顕には、なにかその小さな囲いから嵩高な紫の荷を雪の中へ引き出してくるような、無理な、胸苦しいほど華美な感じがした。
聡子が俥へ上がってきたとき、それはたしかに蓼科や車夫に扶けられて、半ば身を浮かすようにして乗ってきたのにはちがいないが、幌を揚げて彼女を迎え入れた清顕は、雪の幾片を襟元や髪にも留め、吹き込む雪と共に、白くつややかな顔の微笑を寄せてくる聡子を、平板な夢のなかから何かが身を起こして、急に自分へ襲いかかってきたように感じた。聡子の重みを不安定に受けとめた車の動揺が、そういう咄嗟の感じを強めたのかもしれない。
それはころがり込んできた紫の堆積であり、たきしめた香の薫りもして、清顕には、自分の冷え切った頬のまわりに舞う雪が、俄に薫りを放ったように思われた。乗るときの勢いで、聡子の頬は清顕の頬のすぐ近くまで来すぎ、あわてて身を立て直した彼女の瞬間の頸筋の強ばりがよくわかった。それが白い水鳥の首のしこりのようだった。
「何だって……何だって、急に?」
と清顕は気押された声で言った。
「京都の親戚が危篤で、お父(でえ)さんとお母(たあ)さんが、ゆうべ夜行でお発ちになったの。一人になって、どうしても清さまにお目にかかりたくなって、ゆうべ一晩中考えた末に、今朝の雪でしょう。そうしたら、どうしても清様と二人で、この雪の中へ出て行きたくなって、生まれてはじめて、こんな我儘を申しました。ゆるして下さいましね」
と、いつに似げなく、幼い口調で、息を弾ませて言う。
春の雪 - 豊饒の海より
====================
====================
俥はすでに引く車夫と押す車夫との懸声につれて動いていた。幌の小さな覗き窓からは、黄ばんだ雪の絣が見えるだけで、車の中には薄い闇がたえず揺らいでいた。
二人の膝を清顕の持ってきた濃緑の格子縞の、スコットランド製の膝掛けが覆うていた。二人がこんなに身を倚せ合っていることは、幼年時代の忘れられた思い出を除いてははじめてだったが、清顕の目には、灰色の微光に充ちた幌の隙間が、ひろがったり窄まったりしながら、たえず雪を誘い入れ、その雪が緑色の膝掛けにとまって水滴を結ぶありさまや、あたかも大きな芭蕉の葉かげにいてきく雪の音のように、幌に当たる雪が大袈裟にひびくことに、ひたすら気をとられていた。
黒い小さな四角い闇の動揺は、彼の考えをあちこちへ飛び散らせ、聡子から目をそむけていようにも、明かり窓の小さな黄ばんだセルロイドを占める雪のほかには、目の向けどころがなかった。彼はとうとう手を膝掛けの下へ入れた。そこでは、温かい巣のなかで待っていた狡さをこめて、聡子の手が待っていた。
一つの雪片がとびこんで、清顕の眉に宿った。聡子がそれを認めて「あら」と言ったとき、聡子へ思わず顔を向けた清顕は、自分の瞼に伝わる冷たさに気づいた。聡子が急に目を閉じた。清顕はその目を閉じた顔に直面した。京紅の唇だけが暗い照りを示して、顔は、丁度爪先で弾いた花が揺れるように、輪郭を乱して揺れていた。
清顕の胸ははげしい動悸を打った。制服の高い襟の、首をしめつけているカラーの束縛をありありと感じた。聡子のその静かな、目を閉じた白い顔ほど、難解なものはなかった。
膝掛けの下で握っていた聡子の指に、こころもち、かすかな力が加わった。それを合図と感じたら、又清顕は傷つけられたにちがいないが、その軽い力に誘われて、清顕は自然と唇を、聡子の唇の上へ載せることができた。
春の雪 - 豊饒の海より
====================
====================
清顕は自分の頬がひどく熱いので、子供らしく、聡子の頬にも手をあててみて、同じように熱いのに満足した。そこだけに夏があった。
「幌をあけるよ」
聡子はうなずいた。
清顕は大きく腕をひろげて、前面の幌を外した。目の前の四角い、雪に充たされた断面が、倒れかかる白い襖のように、音もなく崩れてきた。
車夫が気配を察して立ち止まった。
「そうじゃないんだ。行け!」と清顕は叫んだ。晴朗な若々しいその叫びを背後から受けて、車夫は再び腰を浮かせた。「行け!どんどん行ってくれ」
「人に見られるわ」
と俥の底に潤んだ目をひそめて聡子は言った。
「構いやしないさ」
わが声にこもる果断な響きに清顕はおどろいていた。
彼にはわかっていた。
彼は世界に直面したかったのだ。
春の雪 - 豊饒の海より
====================
なんて美しい描写なのだろう。
僕は人力車なんて乗ったこともないけれど、幌を下ろした薄暗い座席で、その黄ばんだセルロイドを通して差し込んでくる純白の雪の明かりを、ありありと感じることができる。
すごいなあ。すごい描写力だな。
豊饒の海のトップバッター「春の雪」は、大正初期の貴族社会を舞台にした「ただの恋愛小説」としてとらえても、ものすごく贅沢な時間を味わうことができると思う。
一方で、松枝清顕の痛々しい「厨二病」っぷり……を若さ故の生硬と生暖かく見守ることもできるけれど、少し引いて見ると、松枝清顕と綾倉聡子の「悲恋」以外にも、全編に立ちこめている「死」の匂いから逃れることはできない。主人公以外の「死」と退廃はいったい何を意味しているのだろう。
松枝清顕の世話をする書生は、明治維新の立役者となった先代侯爵を敬愛する一方で、その威風を受け継いでいない現侯爵を憎悪しており、優雅と退廃を内在している清顕には失望していたりする。小説のはじめに「得利寺附近の戦死者の弔祭」の写真が掲げられ、そのシンボリックな何かを弔うイメージが提示される。強引に三島由紀夫の意図を忖度するならば、「春の雪」は、溢れるほどの花と香に包まれ、美しく死化粧された「なにか」が横たわる棺桶の前に、僕らを立たせているような気がするのだ。
「なにか」は何か?
それは三島由紀夫が「美」と考えていたであろう、明治維新の頃に花開いていた「日本の美意識」「ますらをぶり」あたりなのではないか。明治の残り香がまだ漂っている大正初期ですら、明治の気宇壮大な威風はすでに失われ、維新立役者の孫である清顕は貴族として生まれ落ち、そして堂上貴族綾倉家から「優雅」と「退廃」を植え付けられて育つ。そこには貴族的「優雅」はあるけれど、明治時代の質実剛健とますらを的な世界はない。
そう考えると、僕は「なにか」の遺骸の前に立たされているような気がする。松枝清顕と綾倉聡子の悲恋すらも、「何かが死んで、何かが失われたあとの、小さな物語」のように感じられなくもない。美しい、叙情的な表現が連ねられるのは、それは遺骸の放つ腐臭を隠すための、濃厚な香の匂いかもしれないのだ。
それにしても、こんな妄想をかき消してしまうほど、「春の雪」は文句なしにすばらしい。
小説でなければ表現できない。
どんな天才が映像化しても物足りないと感じるに違いない。
ワット・ポーと言えば、アレである。(。_゜)
ただいま僕は三島由紀夫作「豊饒の海」を読み進めていて、第二巻「奔馬」の難所「神風連史話」で難儀していることもあって、また「春の雪」オリジナル松枝清顕の記憶が薄れてしまう前に、いろいろと感じていることを書き留めておこうかと思う。なにせ、あまりにすごい作品なので。
三島由紀夫を読むのは、学生時代に"金閣寺"、"仮面の告白"、"禁色"を読んでから絶えて久しかった。しかも「いまさら三島ぁ?」という先入観もあって。彼の文章は装飾過剰で、オールドファッションの先入観があったんだ。だけど、バンコクを旅行したこともあり、なんだか不思議な縁に導かれて「豊饒の海 第一巻 春の雪」を手に取ったら、もう、すっかり三島ワールドに取り込まれてしまった。なんて美しい日本語なのだろう。なんて巧みな表現なのだろう。いま、これだけの文章を書ける小説家は存在するのだろうか。
全編惚れ惚れする文章だけど、特にご紹介したいのは、この二つのシーンだ。
最初は、月光に照らされて美少年の誉れ高い松枝侯爵の子息松枝清顕が悶々とするシーン。
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彼は帷を乱暴にひらいた。
月は中天にあり、月かげはベッドの上いちめんにひろがった。
月は浮薄なほどきらびやかに見えた。
彼は聡子の着ていた着物のあの冷たい絹の照りを思い出し、その月に聡子の、あの近くで見すぎた大きな美しい目を如実に見た。風はもう止んでいた。
清顕は煖房のせいばかりでなく、体が火のように熱く、熱さに耳もなる思いがしてきて、毛布をはだけ、寝間着の胸をひらいた。
それでも身内に燃えている火は、肌のそこかしこに穂先を走らすようで、月の冷たい光りに浴さなければ納まらない気がしてきて、とうとう寝間着を半ば脱いで半裸になり、物思いに倦み果てた背を月に向けて、枕に顔を伏せた。
なお顳顬は熱く脈打った。
清顕はそうして、たとえようもなく白い、なだらかな裸の背を月光にさらしている。
月かげがその優柔な肉にも多少のこまかい起伏をえがき、それが女の肌ではなくて、熟し切らぬ若者の肌のごくほのかな厳しさを湛えていることを示している。
わけても、月が丁度深くさし入っているその左の脇腹の辺りは、胸の鼓動をつたえる肉の隠微な動きが、そこのまばゆいほどの肌の白さを際立たせている。
そこには目立たぬ小さな黒子がある。
しかもきわめて小さな三つの黒子が、あたかも唐鋤星のように、月を浴びて、影を失っているのである。
春の雪 - 豊饒の海より
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散々「耽美系」というボーイズラブを読んできたけれど、月光を浴びる半裸の少年を描写するのに、こんなに達者な作家は出会ったことがない。
あと、もう一つおすすめなのは、松枝清顕と綾倉聡子がはじめて二人だけでデートする場面。
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蓼科のすぼめられた傘に守られて、紫の被布の袂を胸元に合わせた聡子が、うつむいて耳門(くぐり)を抜けて来た姿は、清顕には、なにかその小さな囲いから嵩高な紫の荷を雪の中へ引き出してくるような、無理な、胸苦しいほど華美な感じがした。
聡子が俥へ上がってきたとき、それはたしかに蓼科や車夫に扶けられて、半ば身を浮かすようにして乗ってきたのにはちがいないが、幌を揚げて彼女を迎え入れた清顕は、雪の幾片を襟元や髪にも留め、吹き込む雪と共に、白くつややかな顔の微笑を寄せてくる聡子を、平板な夢のなかから何かが身を起こして、急に自分へ襲いかかってきたように感じた。聡子の重みを不安定に受けとめた車の動揺が、そういう咄嗟の感じを強めたのかもしれない。
それはころがり込んできた紫の堆積であり、たきしめた香の薫りもして、清顕には、自分の冷え切った頬のまわりに舞う雪が、俄に薫りを放ったように思われた。乗るときの勢いで、聡子の頬は清顕の頬のすぐ近くまで来すぎ、あわてて身を立て直した彼女の瞬間の頸筋の強ばりがよくわかった。それが白い水鳥の首のしこりのようだった。
「何だって……何だって、急に?」
と清顕は気押された声で言った。
「京都の親戚が危篤で、お父(でえ)さんとお母(たあ)さんが、ゆうべ夜行でお発ちになったの。一人になって、どうしても清さまにお目にかかりたくなって、ゆうべ一晩中考えた末に、今朝の雪でしょう。そうしたら、どうしても清様と二人で、この雪の中へ出て行きたくなって、生まれてはじめて、こんな我儘を申しました。ゆるして下さいましね」
と、いつに似げなく、幼い口調で、息を弾ませて言う。
春の雪 - 豊饒の海より
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俥はすでに引く車夫と押す車夫との懸声につれて動いていた。幌の小さな覗き窓からは、黄ばんだ雪の絣が見えるだけで、車の中には薄い闇がたえず揺らいでいた。
二人の膝を清顕の持ってきた濃緑の格子縞の、スコットランド製の膝掛けが覆うていた。二人がこんなに身を倚せ合っていることは、幼年時代の忘れられた思い出を除いてははじめてだったが、清顕の目には、灰色の微光に充ちた幌の隙間が、ひろがったり窄まったりしながら、たえず雪を誘い入れ、その雪が緑色の膝掛けにとまって水滴を結ぶありさまや、あたかも大きな芭蕉の葉かげにいてきく雪の音のように、幌に当たる雪が大袈裟にひびくことに、ひたすら気をとられていた。
黒い小さな四角い闇の動揺は、彼の考えをあちこちへ飛び散らせ、聡子から目をそむけていようにも、明かり窓の小さな黄ばんだセルロイドを占める雪のほかには、目の向けどころがなかった。彼はとうとう手を膝掛けの下へ入れた。そこでは、温かい巣のなかで待っていた狡さをこめて、聡子の手が待っていた。
一つの雪片がとびこんで、清顕の眉に宿った。聡子がそれを認めて「あら」と言ったとき、聡子へ思わず顔を向けた清顕は、自分の瞼に伝わる冷たさに気づいた。聡子が急に目を閉じた。清顕はその目を閉じた顔に直面した。京紅の唇だけが暗い照りを示して、顔は、丁度爪先で弾いた花が揺れるように、輪郭を乱して揺れていた。
清顕の胸ははげしい動悸を打った。制服の高い襟の、首をしめつけているカラーの束縛をありありと感じた。聡子のその静かな、目を閉じた白い顔ほど、難解なものはなかった。
膝掛けの下で握っていた聡子の指に、こころもち、かすかな力が加わった。それを合図と感じたら、又清顕は傷つけられたにちがいないが、その軽い力に誘われて、清顕は自然と唇を、聡子の唇の上へ載せることができた。
春の雪 - 豊饒の海より
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清顕は自分の頬がひどく熱いので、子供らしく、聡子の頬にも手をあててみて、同じように熱いのに満足した。そこだけに夏があった。
「幌をあけるよ」
聡子はうなずいた。
清顕は大きく腕をひろげて、前面の幌を外した。目の前の四角い、雪に充たされた断面が、倒れかかる白い襖のように、音もなく崩れてきた。
車夫が気配を察して立ち止まった。
「そうじゃないんだ。行け!」と清顕は叫んだ。晴朗な若々しいその叫びを背後から受けて、車夫は再び腰を浮かせた。「行け!どんどん行ってくれ」
「人に見られるわ」
と俥の底に潤んだ目をひそめて聡子は言った。
「構いやしないさ」
わが声にこもる果断な響きに清顕はおどろいていた。
彼にはわかっていた。
彼は世界に直面したかったのだ。
春の雪 - 豊饒の海より
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なんて美しい描写なのだろう。
僕は人力車なんて乗ったこともないけれど、幌を下ろした薄暗い座席で、その黄ばんだセルロイドを通して差し込んでくる純白の雪の明かりを、ありありと感じることができる。
すごいなあ。すごい描写力だな。
豊饒の海のトップバッター「春の雪」は、大正初期の貴族社会を舞台にした「ただの恋愛小説」としてとらえても、ものすごく贅沢な時間を味わうことができると思う。
一方で、松枝清顕の痛々しい「厨二病」っぷり……を若さ故の生硬と生暖かく見守ることもできるけれど、少し引いて見ると、松枝清顕と綾倉聡子の「悲恋」以外にも、全編に立ちこめている「死」の匂いから逃れることはできない。主人公以外の「死」と退廃はいったい何を意味しているのだろう。
松枝清顕の世話をする書生は、明治維新の立役者となった先代侯爵を敬愛する一方で、その威風を受け継いでいない現侯爵を憎悪しており、優雅と退廃を内在している清顕には失望していたりする。小説のはじめに「得利寺附近の戦死者の弔祭」の写真が掲げられ、そのシンボリックな何かを弔うイメージが提示される。強引に三島由紀夫の意図を忖度するならば、「春の雪」は、溢れるほどの花と香に包まれ、美しく死化粧された「なにか」が横たわる棺桶の前に、僕らを立たせているような気がするのだ。
「なにか」は何か?
それは三島由紀夫が「美」と考えていたであろう、明治維新の頃に花開いていた「日本の美意識」「ますらをぶり」あたりなのではないか。明治の残り香がまだ漂っている大正初期ですら、明治の気宇壮大な威風はすでに失われ、維新立役者の孫である清顕は貴族として生まれ落ち、そして堂上貴族綾倉家から「優雅」と「退廃」を植え付けられて育つ。そこには貴族的「優雅」はあるけれど、明治時代の質実剛健とますらを的な世界はない。
そう考えると、僕は「なにか」の遺骸の前に立たされているような気がする。松枝清顕と綾倉聡子の悲恋すらも、「何かが死んで、何かが失われたあとの、小さな物語」のように感じられなくもない。美しい、叙情的な表現が連ねられるのは、それは遺骸の放つ腐臭を隠すための、濃厚な香の匂いかもしれないのだ。
それにしても、こんな妄想をかき消してしまうほど、「春の雪」は文句なしにすばらしい。
小説でなければ表現できない。
どんな天才が映像化しても物足りないと感じるに違いない。
惜しみなく降りそそがれる愛……ちはやふる
プーケットからブログを更新しています。
昨日は投宿して30分も経たないうちに激しいスコールが降りはじめ、僕たちはヴィラに閉じ込められました。今朝は上空には青空が広がり、ヴィラのプライベートプールで泳ぐ彼氏を眺めながら、キーボードを叩いています。
バンコクに向かうANAの機内で、僕は「ちはやふる」を読みふけっていました。映画「桐島、部活やめるってよ」を見るつもりでしたが、ざらついた液晶モニターに耐えきれず、iPadに向かってしまったから。
長く放置していた「ちはやふる」でしたが、機上で何度も涙ぐんでしまいましたよ。
愛だなあ、スコールのように降り注ぐ愛、ラム酒が溢れてくるバナナケーキみたいなものか。
「ちはやふる」は競技カルタに挑戦してゆく若者たちを描いたマンガです。
なぜ、「ちはやふる」が愛なのか。
主人公たちは、競技カルタを愛しています。
その課程で、主人公「千早」はいろいろなことに気づかされてゆきます。
超一流の歌人藤原定家が撰んだ、美しい古今の一流の和歌。
古いものは1000年の古に詠まれたもので、1000年間先人が守ってきた大切な遺産であること。
作法……袴姿で競技に出ること。
仲間の大切さ。
ライバルの大切さ。
誰よりも情熱と愛をカルタに注いでいて、自分にカルタの楽しさを教えてくれた師匠。
すべてが愛でした。
先人の情熱と、後継者へ注がれる惜しみない愛でした。
「ちはやふる」には泣きたくなる名言が山ほど出てきます。
ONE PIECEといい勝負です。
いちいち取り上げたいくらいですが、最初にガツーンとやられたのは原田先生の「歓迎する 誰がなんと言おうと歓迎する!!」と三人の子供たちを抱きしめたシーンでした。マンガですから原田先生は泣いてみせていますが、自分の後進、自分が先人たちから引き継いできたことを、次に引き継ぐ相手を見つけられたときの喜びは、何者にも勝るのではないでしょうか。それが文化を継承してきた人間の性なのではないかと。
僕の世代は……いや、いまでも変わらないのかもしれませんが、「自由」と「個性」が最上の価値あるものであるというドグマに基づいて教育されてきました。中村勘三郎が「型のある人が型を破ることを型破りといい、型のない人が型を破ることを型無しという」と語っていましたが、僕らはもともと「日本人」「日本文化の後継者」として一度型に填められる必要があったのです。しかし戦後の左翼教育で、日本の歴史と文化は改ざんされ・歪曲され・否定された中で、僕たちは教育を受けてきました。必要な「型」を持たずに育てられた子供たちは不幸です。「自由」と「個性」は、いま考えると罪深い詐欺師の甘言だったように僕は思います。
日本社会は、日本人であることに罪悪感を抱かせ、日本人以外の文化を不必要に持ち上げ、「脱日本人」を賛美する人たちが長い間跋扈してきました。進歩的文化人という詐欺師が紡ぎ、いまもその残党たちの呪詛が続いているように思います。古い連中の言葉では「地球市民」、いまふうでは「日本を出て、世界で戦える人材」って奴でしょうか。リベラルというのは左翼の階級闘争の概念ですから、彼らは過去と歴史を認めない。いや、自分たちに都合の悪い歴史的事実を認めない。だから「地球市民」になってしまう。文化・時間軸という「縦」の関係を認めないから、彼らは過度に「横」の連帯を声高に主張するのです。
僕らは日本人の先人の系譜に連なる人間たちであることを祝福に思い、もっと誇っていいはずです。 日本文化の後継者であることは、特別なことのはずなのです。
文脈は違うのですが、登場人物のひとり真島太一は「先生 おれはA級になるより……逃げないやつになりたい」と言い切ります。僕らもわかっている人はわかっている。「おれは地球市民になるより……逃げない日本人になりたい」と。戦が起これば真っ先に逃げ、逃げずに戦った人の犠牲の上に平安が訪れたら、恥知らずに舞い戻ってくる。そんな「地球市民」にはなりたくないです。日本人であることを引き受けて、次の日本人に引き渡してゆくのが、僕らの仕事であるからね。日本人で死ねれば、それが本望です。ほんと。
というわけで、「ちはやふる」は小・中学生の課題図書にすべきである!
日本人のDNAが呼び覚まされる大傑作!
○○○のゲンなんか読ませている場合じゃないよ!
そんなことを飛行中に思ったわけです。
ちなみに、日本を狂わしているのは、恥知らずの左翼が跋扈して「日本を愛する日本人」を育ててこなかったことと、過度の社会福祉だと思いますよ。いま老人世代と国会議員がやっているのは「来年の春に田んぼに蒔くべき種籾を先食いしている」状態です。もっと子供たちに投資すべき。その子供たちが日本を強く発展させた「おこぼれ」を、福祉として収穫する方向に頭を切り換えないと。本当に国がつぶれてしまう。
昨日は投宿して30分も経たないうちに激しいスコールが降りはじめ、僕たちはヴィラに閉じ込められました。今朝は上空には青空が広がり、ヴィラのプライベートプールで泳ぐ彼氏を眺めながら、キーボードを叩いています。
バンコクに向かうANAの機内で、僕は「ちはやふる」を読みふけっていました。映画「桐島、部活やめるってよ」を見るつもりでしたが、ざらついた液晶モニターに耐えきれず、iPadに向かってしまったから。
長く放置していた「ちはやふる」でしたが、機上で何度も涙ぐんでしまいましたよ。
愛だなあ、スコールのように降り注ぐ愛、ラム酒が溢れてくるバナナケーキみたいなものか。
「ちはやふる」は競技カルタに挑戦してゆく若者たちを描いたマンガです。
なぜ、「ちはやふる」が愛なのか。
主人公たちは、競技カルタを愛しています。
その課程で、主人公「千早」はいろいろなことに気づかされてゆきます。
超一流の歌人藤原定家が撰んだ、美しい古今の一流の和歌。
古いものは1000年の古に詠まれたもので、1000年間先人が守ってきた大切な遺産であること。
作法……袴姿で競技に出ること。
仲間の大切さ。
ライバルの大切さ。
誰よりも情熱と愛をカルタに注いでいて、自分にカルタの楽しさを教えてくれた師匠。
すべてが愛でした。
先人の情熱と、後継者へ注がれる惜しみない愛でした。
「ちはやふる」には泣きたくなる名言が山ほど出てきます。
ONE PIECEといい勝負です。
いちいち取り上げたいくらいですが、最初にガツーンとやられたのは原田先生の「歓迎する 誰がなんと言おうと歓迎する!!」と三人の子供たちを抱きしめたシーンでした。マンガですから原田先生は泣いてみせていますが、自分の後進、自分が先人たちから引き継いできたことを、次に引き継ぐ相手を見つけられたときの喜びは、何者にも勝るのではないでしょうか。それが文化を継承してきた人間の性なのではないかと。
僕の世代は……いや、いまでも変わらないのかもしれませんが、「自由」と「個性」が最上の価値あるものであるというドグマに基づいて教育されてきました。中村勘三郎が「型のある人が型を破ることを型破りといい、型のない人が型を破ることを型無しという」と語っていましたが、僕らはもともと「日本人」「日本文化の後継者」として一度型に填められる必要があったのです。しかし戦後の左翼教育で、日本の歴史と文化は改ざんされ・歪曲され・否定された中で、僕たちは教育を受けてきました。必要な「型」を持たずに育てられた子供たちは不幸です。「自由」と「個性」は、いま考えると罪深い詐欺師の甘言だったように僕は思います。
日本社会は、日本人であることに罪悪感を抱かせ、日本人以外の文化を不必要に持ち上げ、「脱日本人」を賛美する人たちが長い間跋扈してきました。進歩的文化人という詐欺師が紡ぎ、いまもその残党たちの呪詛が続いているように思います。古い連中の言葉では「地球市民」、いまふうでは「日本を出て、世界で戦える人材」って奴でしょうか。リベラルというのは左翼の階級闘争の概念ですから、彼らは過去と歴史を認めない。いや、自分たちに都合の悪い歴史的事実を認めない。だから「地球市民」になってしまう。文化・時間軸という「縦」の関係を認めないから、彼らは過度に「横」の連帯を声高に主張するのです。
僕らは日本人の先人の系譜に連なる人間たちであることを祝福に思い、もっと誇っていいはずです。 日本文化の後継者であることは、特別なことのはずなのです。
文脈は違うのですが、登場人物のひとり真島太一は「先生 おれはA級になるより……逃げないやつになりたい」と言い切ります。僕らもわかっている人はわかっている。「おれは地球市民になるより……逃げない日本人になりたい」と。戦が起これば真っ先に逃げ、逃げずに戦った人の犠牲の上に平安が訪れたら、恥知らずに舞い戻ってくる。そんな「地球市民」にはなりたくないです。日本人であることを引き受けて、次の日本人に引き渡してゆくのが、僕らの仕事であるからね。日本人で死ねれば、それが本望です。ほんと。
というわけで、「ちはやふる」は小・中学生の課題図書にすべきである!
日本人のDNAが呼び覚まされる大傑作!
○○○のゲンなんか読ませている場合じゃないよ!
そんなことを飛行中に思ったわけです。
ちなみに、日本を狂わしているのは、恥知らずの左翼が跋扈して「日本を愛する日本人」を育ててこなかったことと、過度の社会福祉だと思いますよ。いま老人世代と国会議員がやっているのは「来年の春に田んぼに蒔くべき種籾を先食いしている」状態です。もっと子供たちに投資すべき。その子供たちが日本を強く発展させた「おこぼれ」を、福祉として収穫する方向に頭を切り換えないと。本当に国がつぶれてしまう。
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