最近思うこと(1) 生きてゆくことの感度

「少女マンガへの誘い」の続きを書きたいところなんだけど、いまいち筆の滑りが悪いので後回しにして、最近考えていることを書きます。

>  吉田さんは、貴重な証言をしている。津波で多くの人が亡くなった
> 理由を問われ、「平和ボケ」「津波を軽く見ていた」と答えた。実は、
> この発言を被災地で聞く機会は少ない。
>
> 私が取材時で聞くのは、「防災無線が聞こえなかった」「警察が避難
> 誘導をしていなかった」「周囲で避難する人はいなかった」というもの
> が多い。家族が無事で、「家がない」「車が流された」と口にする人に
> 取材すると、自分の避難意識や行動を省みない傾向がある。

ダイヤモンド・オンライン
「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて 吉田典史
http://diamond.jp/articles/-/15205?page=8


似たような話を報道で耳にすることが増えているような気がします。
交通事故で、海難事故で、自動ドアに挟まれて死んだり、あるいは製造物責任がらみの裁判などで聞くフレーズ……「知らなかった」「教えてくれなかった」「相手が避けてくれると思った」「書いてなかった」「説明がなかった」……そして「死ぬとは思わなかった」というヤツだ。

責任転嫁といえば責任転嫁ですが、もう一方で「生きていることに鈍感だから、死ぬことへの感度が下がっている」日本人が増えている気がします。これって「平和ボケ」じゃなくて、自分も含めて生きていることへの畏敬の念とか、感謝の気持ちとかが失われてきているためなんだろうなあと思います。生きていることに貪欲ならば、交通事故に対して「相手が避けてくれると思った」なんて言わないでしょう。自分から回避するでしょう。なんとなく、ぼんやり他人任せで生きているから、怪我したり、死んだりする。ひょっとしたら、生きている事自体が、夢の中のように感じられているのかもしれませんね。

もちろん、1000年に一度の未曾有の大津波の被害に遭われた人に投げる言葉じゃない、という反論もあるでしょう。じゃ、もう少し社会性を持たせて「日本人全体が生き残るためのスキル・ノウハウの教育が、絶望的に衰弱しているのではないか」と考えることも出来るかと思います。3.11の大地震で帰宅難民になりながら、自分が「生きることに必要な最低限の知恵」を教わっていないことに愕然としました。サバイバル能力なんて殆ど無く、災害時には自衛隊や自治体の救援だけしか当てにできない自分を情けなく思いました。

水辺の近くに住んでいれば水害に対する知識を、山や火山の近くに住んでいれば雪崩や落石、天候の急変に対する知恵を身につけなければならないでしょう。国境の町に住んでいれば、国境線の向こうから侵略される危険性と防御、異国人への対応方法など……それらは知恵と呼ばれるもので、そもそも学校教育ではカバーされないものでした。

で、ここに家庭教育の衰弱が関係してくるとも言えます。
あるいは、地域教育・地域連帯の弱体化を挙げることも出来るかもしれません。

左翼教師たちのトンデモ教育は、たとえば大阪市から正されてゆくのかもしれません。あれはぜひやるべきで「政治に教育が介入すべきではない」という教育委員会に対し、「教育が政治に介入し、子どもにめちゃくちゃな教育をしている状況を正す」のは、大事な事ですから。学校教育はプロの手で立ち直ることができるかもしれません。しかし家庭教育を立ち直らせるのは、たぶん、不可能か、あるいは至難の業になることは間違いありません。

続く

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