話し合うならば、犠牲を払う覚悟もあるのか?

8月は慌ただしい一月だった。
週末は全て予定で埋まり、空いた時間はハイラル平原で戦い、残るはラスボスを倒すのみ。
ブログを放置した夏だった。

ひょんなことから成田空港近くで宿泊することもあって。


雨ばかりの一月だった。
成田ビューホテルから都心に向かって車を運転している時も、時折強い雨が降った。
雨の高速道路を走っていても、別に恐怖は感じないのだけど。

新幹線にも乗ったっけ。


二階建てMaxのパンタグラフはちっさいなあと思った。
当たり前といえば当たり前なのだけど。
最近電車を眺めているとパンタグラフの数が減ったなあと思うのだけど。

昨日は仕事の途中で一人暑気払い。


混んでいない日の鰻屋の仕事には余裕があって、普段に比べてもふっくら美味しく仕上がっていた。
鰻を食べながらとりとめもなく考え事をしていた。

電車の中で見知らぬ人が喋っていた「話し合えばわかる。戦争反対」というセリフ。
こういうことを言う人は、交渉事の経験がないのだろうと思う。
強い相手に交渉するということは、自分の主張が100%通ることはないのだよ。
その時、どこまで譲歩できるのか、端的にいえばどこまで犠牲を払えるのか目算もなく、ただ話し合えば解決すると夢想しているのは・・・なんていうか、世間知らずだなあと。

自分の命を獲りに来た敵を相手に話し合う。
話し合った結果、命は取らない代わりに腎臓を二つよこせ、あるいは腕か足を1本差し出せと言われた時、その犠牲を払うことまで考えているのか?
尖閣で戦争を起こさないために話し合った結果が、琉球列島はおろか、九州南部までの割譲を迫られた時、領土とそこに住む人たちを切り捨てられるのか?

覚悟もなく、話し合いという「命乞い」でなんとか誤魔化そうという魂胆は、足元を見られて全てを失う。
「話し合えばわかる」という欺瞞で自分を騙すのはオトナのやることじゃないと思う。
欺瞞……いや、自分が正しいと信じ込んでいる傲慢さかもしれないね。

そんなことを考えて箸を使っていたら、店先の日差しがうっすらと翳ったような気がした。
夏の終わりの金曜日。

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