Facebookの本質は、"THE TRUMAN SHOW"と同じなのでは?

僕がFacebookに参加しないわけ。

こういうことを言うと怒られるのでしょうが、Facebookを外から見ていると、つくづく「あれは学生のツールなんだなあ」と思わずにはいられないんです。一応、マーク・ザッカーバーグの「フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)」って本も全部読みました。

Facebookの支持者と懐疑者の議論を眺めていると、ほとんど宗教論議に近いような印象も受けます。実名で、個人情報のかなりの部分を含めオープンにし、繋がり合うことへの熱烈な支持と、懐疑的な人たちの間で、僕はどうやら後者に属しているようです。

御存知の通り、Facebookはハーバード大学在学中のマーク・ザッカーバーグが開発したサービスです。彼がリア充か・引きこもりのオタクだったかはともかく、学生が学生向けに設計したサービスには、根本的な前提があります。それは、ほぼ均質な年齢(だって大学生)、ほぼ均質な学力(ハーバード印)、ほぼ均等な社会的認知(だってハーバード) etc といった、前提条件がほぼ均等な人たち向けの内向きなツール、というDNAを内包していると僕は考えています。

Facebookって、そもそも写真付き名簿。

同じ学生寮で暮らしているあいつは何者か?
隣の学部には可愛い子がいるのかな?
気になるあの子は、どんな趣味をしているのかな?

とまあ、均質な狭い世界の中での「差異」を探したり、つるんでいる友達にちょっと連絡したり、ナンパのきっかけを探したりとまあ、アメリカン・グラフィティな青臭いサービスだと僕は見ているんです。

前提に「均質」を求めるサービスが、それこそ想像を絶する異文化・異世界・異教の集団同士が全面的に衝突したら、一体どうなるのか……。

なんて、でかい問題提起はやめましょうか。
もっと身近に落としてみましょう。

そもそも多くの学生の場合、その時点で背負ってきた人生の量はたかが知れたものでしょう。オッサンがワカモノに喧嘩を売ってるわけじゃありませんよ。学生時代の僕がそうでしたから。小・中・高の同級生と、そこで勉強してきたことちょっとと、部活の経験がちょっと。そんな程度でした。

ところが、社会人になって、人それぞれ事情が変わってきます。「均質」が崩れてきます。そして過去を背負うわけですよ。良いことも悪いことも、いずれ、過去は精算を迫ってくる。成功や失敗を重ねていまの自分があるわけですが、それを心の中に秘めて罪を償っていたり、その時の人間関係を絶ち切って生きていたりと、まあいろいろとあります。

大人になるほど親友は少なくなります。
それだけ背負ってきた過去を含めて心を開ける人はそうはいないから。

だから、人は、友達、知り合い、仕事だけの付き合い、趣味だけの付き合い etc など、付き合いの濃淡をきめて生きて行くのでしょう。たくさんの人と全人格的な付き合いが出来る人がいるとしたら、それは神様か、キチガイか、あるいは特別な人なんだと僕は思います。

だとすると、結局、当り障りのない発言とつきあいがFacebook上で展開されることになる。それに対して個人情報はダダ漏れ、パーソナライズ広告にストーカーされ、「いいね!」付き合いに振り回されるデメリットを考えると、手を出す気になれません。

Facebookの本質は、たぶん"THE TRUMAN SHOW"と同じなのだと思います。
映画とちがうのは、利用者は観客ではなく、ジム・キャリー、そしてジム・キャリーを取り巻く俳優たちの役も担わされていることでしょうか。

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