たまに読みに行かせてもらっている「隠居系男子」さんのブログで、ちょっと気になる記事があった。帰りの電車の中で読んでいて、僕もつらつらと考えさせられてしまった。
『かぐや姫の物語』が若者に評価されないことに対する危機感。
http://inkyodanshi21.com/subculture/studio-ghibli/5047/
ジブリの鈴木敏夫さんの『仕事道楽 新版――スタジオジブリの現場 (岩波新書)』の紹介なわけですけど。肝心の仕事道楽を読まずにブログを書くことに気が引けるのですが、ちょっと引っかかるところがあるんですね。
隠居系男子さんが引用している「仕事道楽」の部分を、僕も孫引きします。
「 ぼくはこれまで、映画公開にあたってはこのくらいのお客さんが来てくれるだろうと予想し、あまり外れたことはありません。ただ『かぐや姫』だけはわからなかった。
映画興行としていうとやはりちょっと厳しかったですね。興行収益25億円。とてもおもしろがってくれた人たちがいた反面、一般的な広がりがそれほどでもなかった、娯楽映画としてはやはり長すぎるという問題があったと思いますよ。
でも公開してしばらくしてから観客が増えてくるという不思議な動き方をしてもいました。この映画のありようと関係しているんでしょう。表現に感心のある人は本当に関心したんですよ。僕としては何と言っても高畑さんが思いの丈をぶつけた映画なんですから、それはそれでいいと思っています。そういう意味では結果に対してショックはありません。
実はショックだったのは別のこと。若い人に多かった感想です。「何だ、月へ帰っちゃうのか」、こんな感想を言ったのは一人二人じゃない、つまり単にストーリーを追っている。表現を気にしていない。
僕は今までずいぶん映画を観てきて、ストーリーなどはおぼろげだが、シーンはいまでもハッキリ思い出せるという経験をしてきています。表現の仕方にこそ影響を受けてきた。そういう観方をしないのか。映画に期待しているものがまるで違ってしまっていることにショックを受けたんですよ。
現代は、どう表現しているのかがすっ飛んでしまって、お話の複雑さのほうにだけ感心が向いている、そんな時代なんだなということを、改めて思い知らされました。」
なんなんでしょう、この違和感は。
「かぐや姫の物語」は、ずいぶん前に書いたとおり、僕もお金を払って劇場で鑑賞しました。
その上で拍子抜けして有楽町から戻ってきました。
その拍子抜けと、「仕事道楽」での鈴木敏夫さんの感想の落差を知って、やっと原因が腑に落ちたのです。
これはスタジオジブリのコミュニケーションミスが原因じゃないのですかね。
というのも、ほとんど日本人が知っている竹取物語。
もともとの原作には「姫の罪と罰」という要素は欠片もなかったと思います。
月から落とされてきた姫ではありますが、別にキリスト教的な原罪と赦しの物語ではないわけで。
そこに「姫の犯した罪と罰。」というキャッチコピーで宣伝をしたのがジブリで、しかも監督が高畑勲さんでしょう?
僕自身、サヨク臭がプンプンとする(※)彼の作品は苦手なわけですが、それでもメッセージ性の高い作家が「姫の犯した罪と罰。」と銘打って発表するのだから、いったいどんな新解釈があるかと期待するわけじゃないですか。ところが、観客はエンドロールを見ながら「えっ? これで終わりなの??」とはしごを外された気分だったと思いますよ、あの作品では。
宮崎駿が「崖の上のポニョ」を発表したとき、ジブリはストーリーよりも「いまどき、宮崎駿がオール手書きでアニメを作りました。その職人芸を見てやってください」というメッセージを出していたように思います。実際ポニョのストーリーはグダグダでしたら。でも、観客はそれなりに楽しめた。
「かぐや姫の物語」で、ジブリは「謎かけ」に近いストーリーに期待を持たせる宣伝をしていた。それがすべてのボタンの掛け違いだったように僕には思えます。
鈴木敏夫さんをはじめとするジブリが「アニメの表現」に注目して欲しかったら、「みんなが知ってる竹取物語。それを職人高畑勲がアニメにしました! 高畑勲一世一代の集大成を、とくとご覧あれ!」と宣伝すべきだったんです。それだったら観客は高畑勲さんの「芸」を眺めるつもりで映画館に行けたでしょう。
ジブリが自らのコミュニケーションミスに気づいていないのだとしたら、なんだかなあ〜と思いますね。
※僕は皮肉や当てこすりが嫌いな質なので、環境問題を扱った「平成狸合戦ぽんぽこ」は大嫌いでしたね。それだったらナウシカや、もののけ姫のように全力でメッセージをぶつけてくる方が好きだ。同じサヨクの臭いがする両監督だけど、性格の違いかもしれないね。
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