神の雫、ましろのおと にもルーツはあるか。

鼻が利かなくなると、味がわからなくなる、と言いますね。
僕らが味は舌で感じているものと思っていたのに、実はそうじゃなかったことを知ると意外な気分になる。

先日、現代マンガは手塚治虫の仕事に多くの影響を受けていると解説されてた。というか、表現に映画的手法取り入れ、ストーリーマンガ化したのは手塚治虫の業績だと。これに異存を唱える人は少なくないんじゃないかと思う。

マンガ表現のルーツに思いを巡らしてみると、なかなかおもしろいんじゃないかと。

タイトルの長い最近の作品は読んでいないので、僕の知っている範囲では、"神の雫"と"ましろのおと"が実験的な作品だなあと感じている。"神の雫"はワインを、"ましろのおと"は音楽を絵で表現しようとしている。

でもまあ、ワインは舌と鼻で、音楽は耳で感じるもので、「絵」でそれを伝えるのは難しい。というか、目がなくても楽しめるのがワインと音楽だ。

神の雫 第1巻から。




ましろのおと 第6巻から。





そんなことをつらつらと考えていると、本来目以外で感じるはずの感覚を絵で表現するってことのルーツは、グルメマンガにあるんだろうなあと思った。美味しんぼじゃなくて、たぶんバトル料理マンガ。将太の寿司とか、きららの仕事とか、とにかく審査員が優劣をつけるために美味さを表現しなきゃならない。そういう表現技術の積み重ねに、神の雫や ましろのおと も連なっているんじゃないかと。

バトル系料理マンガを見ていると、審査員の表情、使われる文字(こういうときに漢字は超便利)、大胆なコマ割、吹き出し文字のフォントサイズなどにものすごい工夫を感じる。で、あとは勢い。昔、腕のいい小説家はどんな場面でも読者を力尽くでねじ伏せられると聞いたが、「美味い」「上手い」はたぶん僕らは「表現力でねじ伏せられて」、なかば騙されたように納得させられてしまうんだろうな。

ましろのおと では、主人公雪の津軽三味線を聴きながら、彼の回想シーンに入っていく。それが結構長くて、往年のドカベン…一打席で一回バット振るのに何週間かかってるんじゃい!?ってな感じで。ドカベンの中で。一打席の間に、殿馬一人が指が短いために弾けない曲(ショパンの別れの曲)があって、指のマタを広げる(いわゆる水掻き部分を切除する)手術を受ける回想シーンを思い出したほど。

「感動する」とか、「鳥肌立つ」ってのは、感覚器から入って脳に到達するまでいくつかのルートがあって、味覚や聴覚に訴える内容のものを視覚でねじ伏せられちゃっているのだろうか。そう考えるとマンガの表現はまだいろいろな可能性があるような気がする。

それにしても、ましろのおと は尻上がりにおもしろくなってきているので、注目のマンガだと思う。

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