卑怯な人とは。

曇り→暴風雨。16.4℃/9.7℃/83%

関東地方は午後から爆弾低気圧のため暴風雨に。
去年は2度も帰宅困難者にされたので、今回は会社に働きかけて、午後早々から帰宅困難が見込まれる人は仕事を切り上げて帰宅が許されるようになった。僕は14時過ぎにオフィスを出た。すでに京葉線は上下線とも運行を取りやめていて、他のルートに頼って、最後は風雨が強くなってきたので駅からタクシーを使って帰宅。あれから状況は悪化して、18時過ぎには自宅に帰る手段はすべて失われた。15時過ぎに帰宅できた僕はラッキーな方だった。いまも窓の外では電線が啼いていて、ガラスを揺さぶる強い風が吹いている。

第5巻目から「いじめ」の問題を取り上げていた3月のライオン。その描写と解決についてamazonのレビューではいろいろな人が語っていて興味深い。僕は今回のキモは、このページだと思ったんだよ。


卑怯な人。卑怯組。
この論法を使う人に、少なくない割合でサヨクが多いと僕は感じているのですが、卑怯な人は必ず「立証責任を相手に押しつける」んです。大事なことですからもう一度言いますよ。「卑怯な人とは、立証責任を相手に押しつける人」なのです。今回も、いじめの有無の立証を相手に押しつけ、自分の娘が被害者だという母親は『ウチの娘は「やってない」って言ってるんです。私は娘を信じます」と、自らはきわめて情緒的なポジションを取る。自分の子供を信じてあげることは大切ですが、「問題があったのか、なかったのか」を調べないのは身勝手な人の特徴。多くの善良な人は、この卑怯な論法に負けてしまうのです。

で、今回の3月のライオンでは、強力な、そして教員のあるべき姿として、一人の学年主任が登場してきます。





卑怯な人には、「あんたは卑怯者だ。じゃあ相手が嘘をついているという証拠を出してみろ」と言い返せばいい。でも、善良な、普通の人にはなかなかそれを言い出すことができないのです。

僕は、僕らの両親の世代、団塊の世代の学生運動上がりの教員の「学園の自由」という言葉がだいっ嫌いでした。分別のない獣のような子供を狭い場所に詰め込んで、何時間も机に縛り付けるような事をすれば、生物としてストレスが溜まる。そのストレスは破壊行為へ向けられたり、特定のクラスメイトを虐めるという形で噴出する。

成績の良い者、悪い者
背の高い者、低い者
太っている者、痩せている者
楽天的な者、おとなしい者
スポーツの得意な者、苦手な者
なんでもそつなくこなす者、興味が偏っている者
豊かな家庭に育っている者、貧しい家庭で育っている者

僕が学生の頃は、クラスの中身は結構千差万別。
その差異の中にいじめや、差別が忍び寄ってくることがある。
でも、それは生徒一人ひとりの力では解決できない場合だってある。




だから、生徒に快適さと、安全な自由を提供するためには、一方で強力な「治安」が必要。それを教員だけで実現できるのか、警察力を導入する必要まであるのかは、ケースバイケースだろうけど。それでも「学園の自由」「警察不介入」など叫ぶ教員のために生徒が苦しんでいるのならば、その学校は治安維持を放棄し、子供を戦場に丸腰で放置しているのと同じ。子供たちを銃弾の飛び交うレバノンの町角に置き去りにしているのと同じなんだよ。そして「学園の自由」「警察不介入」を叫ぶ教員こそ、日教組のバカサヨク教師が多かった。それは僕の個人的な経験。

3月のライオン第7巻の学年主任のような、問題の根っこに目を向ける教員をサポートできる仕組み作りに、僕たちはいったいなにができるのだろう。一教員の個人的な力量に頼った問題解決は、その負荷がその教員を押しつぶしてしまう日が必ず来るのだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿