2ちゃんねるでは『「君が代で病気になる先生、助かる!」 不起立ジャンヌ・ダルク先生ら、最高裁判決に喜び』とほとんどバカにされたタイトルの付いたネタがありました。最高裁判決の出た君が代斉唱問題です。
「教育の自由取り返す」って主張は、本当に一部のオトナの勝手な理屈だと僕は思います。「生まれてくる子供は、親を選べない」という理不尽な自然の摂理があります。じゃあ「教育を受ける子供は、先生を選べない」という現状も、自然の摂理のように片付けて良い問題なのでしょうか?
国民は「教育を受ける権利」を持ち、保護者は「教育を受けさせる義務」が制度上あります。日教組のイカレタ教師が自分勝手な「教育の自由」を振りかざすなら、公立学校に通う道を選ぶ子供と親は、少なくとも個別の教員のプロフィールを参照の上、問題教師を忌避する自由があっても良いのではないかと思います。
考えてみれば変ですよね。予備校や、大学の教員は、プロフィールが公開され、その情報に基づいて生徒側が教員を選ぶ自由があります。義務教育だとはいえ、イカレタ教員の偏った思想・信条を注入されるのは、生徒らにとって害悪でしょう。
日教組の教員が「教育の自由」を求めるのならば、生徒と保護者から「選択される」試練を負うのがフェアじゃないかと。高橋源一郎氏がマサチューセッツ州にあるサドベリー・バリー校について紹介しています。この学校のスタイルが約束の地だとは言い切れませんが、だがしかし、自由の代償は、なんと厳しいラディカルな制度であることか。
制度設計をし直せるならば、教員は最低限ぎりぎりの生活できるだけの給与以外は、生徒から選ばれた頭数分の歩合給をもらえるといったものなんかで良いのでは?
まあこういう制度は、授業担当と教員と、生徒の日常生活をサポートするチューター(?)みたいな役割分担が必要になるのかもしれませんが。
高橋源一郎さんのつぶやきを、こちらに転載してあります。
長いですけど、読んでみる価値はあります。
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高橋源一郎 午前0時の小説ラジオ・「世界一素敵な学校」
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午前0時の小説ラジオ・「世界一素敵な学校」1・そんな学校は他にもある。日本にも、世界中のあちらこちちにも。ぼくたちの多くがそのことを知らないのは、たぶん、社会が知らせないようにしているから。なぜなら、そんな「ありえない」ことが可能なら、困ってしまう人たちがたくさんいるはずだから。
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学校2・ぼくは、この(これらの)学校を知り、その「教育」内容を知るにつれ、深い関心を抱いた。その理由の一つは、ぼくには、これから「教育」に向う5歳と7歳の子どもがあるからであり、もう一つは、大学で、学生たちを「教育」しようとしているからだ。
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学校3・その学校は、アメリカ・マサチューセッツ州にあるサドベリー・バリー校。ここでは4歳から19歳までの「子ども」たちを受け入れている。日本でいうなら、「幼稚園年中」組以上から高校(もしくは大学1年)程度までだ。写真で見ると、この上なく美しい風景の中に、「校舎」がたたずんでいる。
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学校4・この学校には、カリキュラムがない。試験がないから、採点はないし、通知表もない。学年もクラスもない。いわゆる「教室」もない。当然のことだけれど、卒業証書もない。後で詳しくいうことになるかもしれないが、「先生」も「生徒」も存在しない。あるのは、子どもたちの「完全な自由」だけだ。
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学校5・この学校では、たとえば「問題児」が歓迎される。彼・女が、問題を起こすのは、「闘い」を放棄していないと考えるからだ。その子に、反抗するだけの元気があることは、とても素晴らしいことだからだ。
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学校6・いちばん驚くのは、この学校では、「読み」「書き」の「授業」さえないことだ。だから、8歳になっても9歳になっても、字が読めない子さえイル。なのに、だ。この学校では重視されてはいないことだけれど、最終的に、ここを卒業した子たちの「学力」は、ふつうの学校より高い。
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学校7・通常の「教育」を一切しないこの学校に対して(それなのに、たいていの子どもは希望の大学に進学する)、そんな「奇跡」のようなことがあるはずがないと、「現実主義者」たちは批判してきた。けれども、最後に音をあげるのだ。なぜだかわからないが、ここではなにもかもうまくいってしまうから。
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学校8・「教育」はしない。けれども、子どもたちがなにかをしたい、と思った時のための「完全な準備」が、ここにはある。その「準備」は、カリキュラムに従って、「教育」を与えるだけの学校より、遥かに困難だ。実例をあげてみよう。
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学校9・この学校には、決まった「授業」はなにもない。だから、子どもたちはずっと、好きなことをする。ずっと釣りをしたり、ずっとゲームをしたり。でも、おとなたちはなにもいわない。ただじっと待つのである。ある日、9歳から12歳の子どもたち12人が、ひとりの「おとな」のところにやってきた。
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学校10・「足し算、引き算、掛け算、割り算、算数ならその他なんでも教えてくれと頼んできたのだ」「本当はやる気ないんじゃないの?」「いや、本気だよ。算数をマスターしたいんだよ」。というわけで、いままで算数を習ったことのない子どもたちと「おとな」は「協定」を結ぶのである。
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学校11・その「協定」の中身は、☆時間を守ること。☆約束の時間に5分でも遅れたら、その日の「授業」はなし。☆それが2回続いたら、その「授業」は永遠に中止。その「協定」を守ることを誓って、「勉強」が開始される。その集まりを、ここでは「クラス」と呼ぶのである。
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学校12・さて、その結果はというと、通常6年かかる、算数の全教程が、二十四週、週2回30分ずつ、トータル24時間で終了してしまう。これがいつものペースだ。そして、子どもたちは一度も約束を破らない。彼・女たちを教えた「おとな」は、こういうのである。
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学校13・「教科それ自体は、そんなに難しくないんです。では何が算数を難しく、ほとんど不可能にしているかというと、嫌で嫌で仕方ない子どもたちの頭に、無理やり教科を詰め込んでいく、あのやり方のせいです。…毎日毎日、何年もの間ずっと、少しずつハンマーでたたき込んでいけば…」
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学校14・「さしもの子どもたちもいずれ覚えるだろう、というあの教え方です。うまく行くわけがない。だから見てごらんないさ。このくにの六年生の大半は、数学的な意味で文盲です。結局、わたしたちがなすべきこと、それは、子どもたちが求めたとき、求めるものをあたえることなのです…」
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学校15・「そうすれば、まあ、二十時間かそこらで、彼・女たちは、きっとモノにしてしまいます」。繰り返しいうが、通常6年かかる算数の全教程を教えるのに、この学校では、二十時間かそこら以上かかったことは、いままでも一度もないのだ。
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学校16・「読み」「書き」に関する話はもっと面白い。これは、自分の子どもをここに預けた、この学校の主催者の告白。「学校のほかの子どもたちと同様、娘が読むのを教えてくれと頼んでくるまで、あるいはまた自分で読めるようになるまで、わたしたちは待ったのです。待って、待って、待ったのです」
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学校17・「ところが彼女は6歳になっても読まないのです。それも良しとしなければならないでしょう。世間並みなのですから。が、彼女は7歳になっても読み始めません。こうなると、親としてはやはり心配です。とくに、おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちが不安の表情を浮かべます」
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学校18・「ついに8歳にして読まず。こうなると、もはや一家、仲間うちのスキャンダルです。わたしたち夫婦は、まるで非行パパと非行ママ。「それでよく、学校やってられるわね」というわけです。娘が8歳になっても読めないのに対策もとらないで、よく学校をやってますなんていってられるわね、」
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学校19・「そんなのまともな学校じゃないわよ、非難の言葉を浴びせかけてくるのです。でも、サドベリー・バレー校ではだれもそんなことを気にしちゃいません。確かに、8歳になる友だちの大半は読めるようになっています。でも、まだ読めない子も何人かいるのです。そんなこと娘は気にもかけていません」
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学校20・「元気一杯幸せに、毎日を過ごしているのです。娘が「読みたい、読もう」と決心したのは9歳のときでした。どんな理由でそう判断したのか、わたしにはわかりませんし、娘本人も覚えていません。まもなく、9歳と6カ月で、彼女は完璧に読めるようになりました。なんでも読めるのです」
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学校21・「もはや彼女はだれの「心配の種」でもなくなったのです。もちろん、もともと、「問題児」でもなんでもなかったのですが」
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学校22・いったい、「学校」とはなんだろうか。動物たちは、子どもを「学校」にやらなくても、きちんと子どもたちは成長して、成体になる。そして、人類もまた、誕生して以来、ほとんどの期間を、「学校」なしで過ごし、なんの問題もなかったのだ。
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学校23・現在のような「義務(強制)教育」が一般化したのは、産業革命以降の200年にもみたない期間にすぎない。それまで、「教育」はあったとしても、一部の特権階級のために「知識」を「教授」するものでしかなかっのだ。
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学校24・産業革命以降、「義務(強制)教育」が生まれたのは、工場で働く、「機械のコマ」が必要だったからだ。それに必要なのは、きわめて不自然な「自動人間」になるためのスキルだった。そのために、どうしても必要なことがあった。それは、子どもたちの「自由な精神」を破壊することだった。
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学校25・「一カ所にじっと座っていたい、並んでいたい、言われた通りのことをいつもしていたいと、思い込ませなけれはなりません。駆けっこをするなど、もう許されません。もはや自由はないのです。したいことをしてはならない。好奇心の導くままに学ぶなんて、許されない。ただいだ厳しい規律を…」
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学校26・「…受け入れていればいい。誰もが同じことを、いつも必ずしている。適応しなけれは、罰せられるのです」。だから、ある人は、ぼくたちが子どもを通わせている学校のことを、こう呼んだのである。「昼間子ども強制収容所」。
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学校27・この学校の根底にあるのは、「人間には自己教育への鮮烈な欲求がある」という考え方だ。人間には、おとなになりたい、必要なことをどうしても知りたい、という本能が埋め込まれている。「教育」とは、本来、誰もが持っているはずの、そんな「自己教育」の本能が発動するのを助けることだ。
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学校28・けれども、現実の「学校」は、ぼくたちが本来もっている「自己教育」の本能を忘れさせ、ただ、知識が詰め込まれるのを、口を開けて待つことしか知らない、か弱いニワトリにしてしまったのである。
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学校29・子どもたちを「おとな」として遇すること。子どもたちに「自分の主人は自分なんだ」と気づかせること。子どもたちに「自分の人生を自分の意志で歩ませること」。だから、この学校では、「自己責任」は、もっとも美しく、峻厳なことばでもある。だが、この学校の真の秘密は、他にある。
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学校30・この学校でもっとも驚くべきことは、実は、いままでに書いた「教育」の「内容」ではない。この学校の「統治」のシステムだ。この学校では、すべてが、校則も、予算も、学校運営も、「教師」の採用・解雇まで「全校集会」で決められる。そこでは、おとなも子どもも同じ1票の権利があるのだ。
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学校31・4歳の子どもも「校長」も同じ1票。それ故、学校スタッフではなく、子どもたちの意志がもっとも優先される。この学校の「教育」を支えているのは、この、ルソー的といってもいいかもしれない、ラディカルな民主主義の考え方だ。
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学校32・「権力や権威がもたらす恐怖--これこそが、わたしたちがこの学校から一掃しようとしたものなのです。…わたしたちは決めたのです。生徒であれ教師であれ、親であろうと訪問者であろうと、だれ一人として、人間の権威を恐れなくてすむような学校を作ろう、と。そうすれは多分…」
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学校33・「…年齢の違いや性差、地位、知識、出自の違いなどお構いなく、だれもが相手の目をストレートに見ることができる、と考えたのです。…アメリカは、統治のあらゆる形態がデモクラティックな国です。そういう国にあって、学校をデモクラティックに運営していくことは理に適ったこと、と…」
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学校34・「…わたしたちは考えました。最小の町から連邦政府レベルまで、あらゆる機構がデモクラティックなコンとロールを受けるようデザインされてきたのです。学校がなぜそうであってはならないのか、とわたしたちは自分自身に問いかけました。そして考えれば考えるほど、学校もまた…」
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学校35・「…そうでなければならない、と思うようになったのです。デモクラティックな学校コミュニティーの大人たちは、自分たちが享受する市民的基準と同じものを、学校生活にも適用できるはずです。子どもたちもまた、民主主義の生活を構成する諸原理、諸実践の中で育てられるべきでしょう…」
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学校36・「…そうすることによって、子どもたちは、成人に達する以前に、責任ある社会的市民性なるものを自然に身につけることができるのです。なにしろ、そういう生活を、学校コミュニティーのなかで、毎日経験するわけですから」
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学校37・目指されていたのは、「学校」ではなかった。人間が、その可能性をもっとも発揮できると信じられる、民主主義てき共同体だった。そして、その中に、その必然として、子どもたちの「学校」が、世界でもっとも素敵な、と呼ばれる学校が生まれたのだ。
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学校38・だから、民主主義の「核心」は、「教育」なのだ。子どもたちに、どんな「教育」を与えるかが、その共同体の民主主義の成熟度を示すことになるのかもしれない。いや、「教育」の「核心」は、、実は民主主義にある、といっても同じことなのかもしれないけれど。
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学校39・すべてを解決する魔法の解決策などないのかもしれない。けれども、ぼくには、子どもたちのために考える義務があるように思ったのだ。以上です。一度では語り尽くせない問題でした。聞いてくださって、ありがとう。
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