須賀敦子全集第2巻を読み進めています。
まだ途中ですが、通底するテーマは「喪失と哀しみ」でしょうか。
哀しみと言っても「哀しい、哀しい」と叫んでいるのではないのです。失ってから長い時間が経過して、あらためてもう自分の元には戻ってこないという諦念に似た感情。僕にはうまく表現できないんだけど。彼女が"オデュッセイア"から引用した
アキレウスは、アスフォデロの野を
どんどん横切って行ってしまった
という一節に象徴されているのかもしれない。
もう「行ってしまった」のだ。還ってくることはないのだろう。
これが30代より前の人が書いた文章ならば、「なんて感傷的な人だろう」と思うだけだろうな。でも須賀敦子は60代になってエッセイを書くようになった。透明感を帯びた遠い記憶から呼び起こされる喪失の哀しさは、人生の深みを感じさせるとともに、それを背負って生きてゆく人間賛歌にも繋がってゆくのかなぁとも僕は思ったりもする。
このエッセイの中ではもう一つ有名になってしまった引用があるんだ。
自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。
できあがったカテドラルのなかに、
ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ
サン・テグジュペリの文章らしいのだが、ネット上を探しても原典がわからない。
いずれ見つけてみたいと思っているんだけど。
彼女の文章をそれほど読んだわけではないが、この2つの引用が同居する人、そういう人なのだと僕は理解しているつもり。全集を読破する途中で印象は変わってしまうかもしれないけどね。"記憶と想起"が特徴の、彼女の文章。僕のブログもなんとなくそんな構成になっているような気がする。
ボスのいない水曜日、午前中に。
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