晴れ。
今日は"プーシキン美術館展"を見てきました!
ちょうどモネ、セザンヌ、マティス、ピカソと入門本を読んでいたので「行かなきゃ!」ということで。テキストにも載っていたマティスの"金魚"はとても愛らしかったけれど、今回一番響いたのはセザンヌの"池にかかる橋"でした。
全然美術史なんかわかんないんだけどさ、モネ→セザンヌあたりが20世紀絵画の流れを作った人ってことになるんだろ?
「物の輪郭を眼で捉えるのは、知覚(視覚)の働きによる。絵が「感覚の実現」を目指すのであるなら、画家が見る物は輪郭線ではなく、ひたすら色でなくてはならない。ひたすら色を見て、それが画家に備わる感覚の通路のなかで、絵具による「色斑(tache)」へと転換されていくのを待つ」
という解説書の中の一節があって、たしかにルネサンス期の(厳密的で単純な)遠近法で描かれたものではないことはわかる。そこには空気と光の粒子というような要素が描き込まれているし、"池にかかる橋"の背景に描かれている樹木の周囲に空気の濃淡を感じた。ゴッホの絵も光の粒子と空気の流れが描き込まれているし。この樹木部分だって、近寄って見れば見るほど樹木とはかけ離れたものなんだけど、セザンヌが見た樹木→セザンヌが色斑データに置き換えた絵→セザンヌの色斑点を僕が見る→僕の頭の中で樹木が構成される ってなプロセスでしょうか。樹木は風に揺れて、光の中で複雑な濃淡と、立体面を構成していることが見て取れました。
で、だ。マティスのフォービスムに行ってしまうと、色彩はより感覚的(画家個人の内側にわき上がる官能に拠るのだろうが)で、もはや対象となったモデルがもともとまとっていた色彩とは異なったものになってしまっているようだ。
それにしても印象派の人たち(とくにモネだな)が描く空は、どうしてある種の郷愁をわき上がらせるのだろうか。ピカソの頃になると戦争だの、社会不安だのといった記号が入り込んでくるが、印象派の描く空からは"ベルエポック"的大らかさが伝わってくる。僕は好きだ。
そのほか。
アンリ・ルソーが2点。
あいかわらず空想的で不思議な物語に引き込まれるような気がする。
ゴーギャンもあった。
ゴーギャンは正直好きになれない。彼の描くタヒチの絵には、どうも"西洋人の目から発見された楽園"という腰高の姿勢が見えるような気がするから。すまん。僕個人の印象に過ぎないけれど。
帰り道、プライベートのコートとジャケットを買いました。
週中にはオーダーしておいたビジネス用コートも入荷予定。
楽しみ。
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