知性と感情

曇り

『考える脳 考えるコンピューター』が結構おもしろい。というか学会で語り合われている理論のことはあまり知らない が、学生の頃自分が直感的に考えていたモデルととても近い。創造的とか、知能的と言われている人間の振る舞いは、実はパターン認識に過ぎない。その本質は人工知能学会が行っていたような高度なプログラミングや、if then モデルとはまったく異なるものであるにちがいない、という想像にかなり近いものだった。だってさ、倫理の授業で『オオカミの育てられた少女 アマラとカマラ』って話を聞かなかった?オオカミに育てられたのは本当か?という疑義はあるにせよ、僕らが「常人と奇人」との間に線を引くのは、常識とされる僕らが相 手に期待する社会的行動パターンから大きく逸脱したときじゃないかと思っていた。要は僕らが繰り返しているのはパターンの踏襲だと思っていた。筆者が主張していることを要約(P,148まで)すると、「知性とは過去に記憶したパターンに基づいて未来に対する予測であり、予測が外れたときに補足する能力」である。うん、そんなところだろう。

まだ続きを読んでいないからこれから先は想像だが、たとえば「新しい発見や発明は過去のパターンの踏襲ではないのでは?」という反論はあるんじゃないかと思う。筆者の言う「人間の知的な振る舞い」と「知性のジャンプ」の間には大きな隔たりがあるんじゃないかと思う。筆者の言う「知性」と「生物(or学問的)進化」は別のものなんだろう。おそらく「進化」ってのは、自然の中からいままで感じ得なかったものをくみ上げる「感覚器」をたまたま備えた人間だけが行い得るもんであって、そこら辺の天才を作り出す仕組みはそれこそDNAのいたずらじゃないんだろうか?




筆者は機械に知的な振る舞いをさせることはできるが、その機械は感情を生み出すことはできないと結論づけている。僕はできると思うんだけどよ。

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